育種の潮流の外にいたダマスクローズ
18世紀の終わり頃になると、おもに王侯貴族のあいだでバラの花が庭やサロンの会場などで飾られるようになり、とくに大輪で花弁が密につまったケンティフォリアや赤や紫に花開くガリカが持てはやされるようになりました。
それに反しダマスクは、強い香りが重宝されアロマオイルなどの原料としてトルコなどで大規模に栽培されていましたが、庭植えバラの育種の流れからは外れていました。
ケンティフォリアに較べると、花弁の数が少なく、花色は明るいピンクばかり。ガリカのように色変化を楽しめるわけでもなく、樹形もより大きくなりがちで、洗練さに欠けると評価されていたからだと思います。
そんなダマスクローズでしたが、今の時代まで伝えられた美しい品種が少なからず存在します。
セルシアナ(Celsiana)– 1732年以前、春一季咲き
鮮烈なダマスク香。中輪のセミ・ダブル、平咲きの花が房咲きとなります。
春一季咲きですが、開花の期間が長く、長い期間楽しみを与えてくれます。細いけれど固めの枝ぶり、中型のシュラブとなります。
耐寒性、耐病性ともにすぐれ、多くのバラ愛好家にダマスクの美点をすべて備えたすぐれた品種と評されています。
非常に古い時代にオランダで育種されたとみられています。
古くはロサ・ダマスケナ・ムタビリス(R. damascena mutabilis)と呼ばれていたようです。開花期間が長いことから、開花当初の明るいピンクと熟成して退色して白くなった花を同時に見ることからか、“ムタビリス(色変化)”という別名がつけられました。
1812年ころ、フランスの園芸研究家であったセル(Jacques-Martin Cels)に捧げられた、あるいは彼自身が世に紹介したとされとも言われています。このことから、“セルのバラ(Celsiana)”と呼ばれることになりました。
アルバに品種分けされているアメリア(Amelia)とよく似ていて、クラスも違う他人の空似の好例です。
アメリア(Amelia)-1823年、アルバ、春一季咲き
マリー・ルィーズ(Marie Louise)– 1810年以前、春一季咲き
大輪、丸弁咲あるいはロゼッタ咲き、花弁の数はケンティフォリア並みに多いですが花形は乱れがちです。花色はくすみがちながら深みのあるピンク、花弁にピンクと白の細かな筋が入ることがあり、とても美しいです。
ダマスクとしては少し小さめ。立ち性のシュラブとなります。
この品種の由来にはいくつかの説があります。
ロイ・E. シェファードは著作のなかで、この品種は1800年以前にすでに公表されていたと記述しています。
ジョワイオ教授はアガタ・インカルナータと同じ品種なのでさらに古いはずとも。さらにバラ研究家のディッカーソンはこの品種は17世紀にはすでに知られていたブラッシュ・ベルジックの別名だろう、とも言っていて、定説はありません。
ダマスクローズの頂点にあるといってよい優れた品種(”Graham Stuart Thomas Rose Book”)ですが、皮肉なことに、ナポレオンの2番目の妻の名を冠したこの品種は、ジョゼフィーヌがマルメゾン館の庭園に集めたバラ品種のひとつだと言われています。
古い時代にはブラッシュ・ベルジック(Blush Belgic)、ベル・フラマンド(Belle Flamand)など、別名称だったようです。時代が下がるにつれマリー・ルイーズという品種名がもっとも一般的なものになりました。
交配親は不明です。花弁が密集する花形からケンティフォリアにクラス分けされることもありますが、葉や樹形にはダマスクの特徴が濃厚に出ることが多く、ダマスクにクラス分けされるのが適切のように思います。
ナポレオン皇妃、マリー・ルイーズ
ちょっと触れましたが、マリー・ルィーズ(Marie Louise:1791-1847)は、ナポレオン・ボナパルトがジョセフィーヌと離婚した後、皇妃として迎えたオーストリア皇帝フランツ1世の娘、ハプスブルグ家の王女です。フランス革命の渦中でギロチン刑に架せられたマリー・アントワネットは大叔母にあたります。
“マリア・ルイーザとナポレオン2世” Painting/Joseph-Boniface Franque, 1811 [Public Domain via Wikimedia Commons]
実は、ハプスブルグ家が皇帝として君臨するオーストリーはナポレオン率いるフランス軍に何度も蹂躙され、マリーはナポレオンを忌み嫌っていました。
ジョゼフィーヌとの間に子ができないため、自分の生殖能力には欠陥があるのではないかと悩んでいたナポレオン(ジョゼフィーヌには前夫との間に2子があった)ですが、愛人との間に私生児が誕生したことにより、名家の淑女との間に子を設けて皇帝たる自分の子孫を残したいと思うようになりました。
そこでナポレオンはジョゼフィーヌを離縁し、マリー・ルイーズと婚儀をむすぶことにしました。この結婚は敵対するハプスブルグ家との間のもので政略結婚そのものでした。
婚儀が定められたときマリーは泣き暮らしたと伝えられています。しかし、結婚直後は、ナポレオンがマリーに穏やかに接したことから、フランスでの生活は平穏であり、嫡子ナポレオン2世にも恵まれました。
しかし、連戦連勝を重ね、無敵を誇ったナポレオンもロシア遠征で致命的な敗北を喫するなど、敵対するヨーロッパ諸国同盟に追われるようになり退位を余技なくされます。マリーはナポレオンがエルベ島へ流刑となった後はウィーンへ戻り、ナイベルグ伯と密通して娘を産むなどナポレオンとは疎遠になってしまいました。
ナポレオンが懇願し続けたにもかかわらず、マリー・ルイーズはエルベ島へ駆けつけることもありませんでした。ナポレオンがエルベ島を脱出し、パリへ向かっているという知らせを聞いたときには仰天して、「またヨーロッパの平和が危険にさらされる」と言ったと伝えられています。(”Wikipedia”など)
政略結婚であったにせよ、また、密通などにはかなり寛容な時代風潮があったにせよ、”英雄”ナポレオンン・ボナパルトの”不実”な妻という悪名を後々まで残すことになってしまったのはある意味では気の毒なことだと言えるかもしれません。
レダ(Leda)– 1827年、春一季咲き
中輪、25弁ほどの小皿を重ねたようなオープンカップ型の花形となります。
つぼみは、開花すると深紅に縁取りされた白いバラとなります。筆で色つけしたように見えるため、ペインテッド・ダマスクと呼ばれることもあります。
強くはありませんが、甘い香り。
深い葉緑、細いですが強めの小さなトゲが密生する枝ぶり、120cmから180cmほどのブッシュとなります。
現在、ピンク・レダと呼ばれているダマスクが古い時代から、おもにフランス内で流通していました。ごく最近まで、ピンク・レダはレダの枝変わり種だとみなされていましたが、実際には逆で、1827年(1825年という説も)、英国において、このピンク・レダの枝変わりとして生じたのがこのレダだという説もあります。どちらが正しいのかは現在でもわかっていません。