19世紀後半のヨーロッパ
19世紀後半、英国、フランス、プロイセン、オーストリー=ハンガリーなどのヨーロッパ列強は、領有地や植民地をめぐり、ときに協力し、ときに武力衝突に至るなど、利権を争って激しく競い合っていました。
文化的にはベル・エポック(Belle Époque:“美しい時代”)と呼ばれた時代の入り口にあたります。
英国はヴィクトリア朝と呼ばれる絶頂期を迎えていました。
フランスはナポレオン時代終焉後の混乱が収まらず、王党派、ボナパルト(ナポレオン)派、共和政派などが激しく争い、王政、共和政と目まぐるしく政体が変転していました。
また、ドイツの主要王国であるプロイセンは群雄小国を統一して大ドイツの長となることをもくろみ、オーストリー=ハンガリー帝国も出遅れた植民地獲得競争に歯ぎしりしているといった状況でした。
19世紀後半の貴婦人たち
19世紀後半の王侯貴族社会。美、善良さ、そして貞淑であることが婦人の美徳であるとされていました。王侯貴族など貴婦人たちは、腰をコルセットで締め上げ、きらびやかに着飾り、美を競い合っていました。
一方で、この19世紀後半の時代は、英国に端を発する産業革命の波がひたひたと寄せてくる時代でもありました。富が偏在し格差が拡大するなか、社会階層の変革のきざしが見え始めていました。
インテリジェントな女性たちは時代の流れのなかで、雇用や教育の機会の不均衡、婦人に参政権が認められていないなどの不平等に抗して声をあげ、権利の主張するようにもなりました。
こんな時代でしたが、18世紀末から19世紀前半にかけての、皇妃や王妃など高貴な婦人たちが集うサロンは19世紀後半になっても変わらずに続いていました。
エリザベート・フォン・エスターライヒ(Elisabeth von Österreich:1837-1898)
1853年8月18日、若きオーストリア皇帝にしてハンガリー国王、ハプスブルグ家のフランツ・ヨーゼフ1世(Franz Joseph Karl von Habsburg-Lothringen)は皇妃候補のひとり、バイエルン公家の公女ヘレーネ・カロリーネ・テレーゼ(Helene Caroline Therese)と見合いをしました。ヘレーネには妹エリザベートがいて、妹は皇帝と姉の見合いの席に同席していました。
フランツ・ヨーゼフ1世は、当の皇妃候補ヘレーネではなく、同席していたエリザベートに魅了されてしまいます。皇妃候補であったヘレーネを差し置き、エリザベートに夢中になってしまいました。
フランツの母后ゾフィーは思わぬ事態の展開に困惑してしまいますが、常日頃は母に従順であったフランツはこの時ばかりはエリザベートを皇妃にと譲らず、翌1854年4月ふたりは結婚しました。フランツ23歳、エリザベート16歳でした。
エリザベートの美貌はまたたくまにヨーロッパ中に知れ渡りました。しかし、父マキシミリアン公ゆずりであったであろう彼女の自由奔放さは、義理の母、皇太后ゾフィーとの間で軋轢を生み、また、王権神授説を奉じる夫フランツ・ヨーゼフ1世との性格の違いによる溝は埋めようもありませんでした。
エリザベートは伝統と格式を重んじる宮廷を嫌い、旅を愛し、大西洋上のマディラ諸島、ドイツ、バイエルンのシュタルンベルク湖畔、湖に近在の実家のポッセンホーフェン城、ハイデルベルグ、とりわけギリシャのコルフ島には居館を建てて長期に滞在することが多くなりました。ハンガリーにおける民族独立運動にも少なからず同情していたことも知られています。
1881年、長男でオーストリア=ハンガリーの皇太子であったルドルフが外交官アルビン・フォン・ヴェッツェラ男爵の娘マリー・フォン・ヴェッツェラと情死するという事件が起きました。(マイヤーリンク事件)
衝撃を受けたエリザベートは以後喪に服し、自身が襲撃され死去するまで黒衣を通しました。
晩年は女官スターライ伯爵夫人のみを伴い街歩きをするなど、護衛官たちも苦労したようです。伝記作家は晩年の皇妃をそれとは知らず目撃したイタリア人の女優の言葉を伝えています。
「ひとりは喪に服しているようだった。襟の高い黒いドレスに黒い編み上げ靴をはいて、黒い帽子をかぶり、厚いベールを帽子の広いつばの上にあげていた…」(『エリザベート、美しき皇妃の伝説』ブリギッテ・ハーマン)
1898年9月10日、イタリア人の無政府主義者ルイジ・ルッケーニはジュネーブに滞在していたオルレアン公アンリの暗殺をもくろんでいました。ところが、謀計はアンリがすでにジュネーブを離れてしまっていたため果たせず、ルイジは落胆していました。
しかし、ルイジは、その朝、目にした新聞記事にオーストリア=ハンガリー皇妃エリザベートが滞在していることを知り、凶行を思い立ちました。王侯貴族であれば誰でもよかったと、彼は犯行後に語っていたとのことです。
ホテル前で待ち伏せしていたルイジはアイスピックのように鋭くとがった凶器で皇妃の胸を深く突き通しました。皇妃が受けた傷は一見小さな傷で、はじめ衝撃で仰向けに倒れたものの、すぐに立ち上がり、組み伏せられた犯人のルイジをしりめに、モントルー行きの蒸気船に乗り込みました。しかし、実は凶器は彼女の心臓に達しており船が岸壁を離れると間のなく倒れこみそのまま死去しました。
ルイジは得意満面に凶行を誇り、「働く者だけが食っていいのだ!」と繰り返していたとのことです。終身刑に架せられたルイジは11年後、刑務所内で首吊り自殺をとげました。
1964年、ドイツのタンタウ社が育種・公表したモーヴ(藤色)のハイブリッド・ティー(HT)は、英語圏や日本では‘ブルームーン(Blue Moon)’の名で親しまれている人気品種ですが、フランスではエリザベートに献じられ‘シシー(Sissi)’と呼ばれることも。エリザベートはごく親しい人々の間でシシーと呼ばれていたことにちなんだものです。
また、1998年、ニュージーランドのマクレディ4世が育種・公表したHTは、今日ではあまり出回っていないようですが、‘エンプレス・エリザベート(Empress Elizabeth)’と命名されています。
ウジェニー・ド・モンティジョ(Eugénie de Montijo: 1826-1920)
後に不朽の名作『カルメン』を書きあげることになるフランスの青年作家プロスペリ・メリメ(Prosper Mérimée)はスペイン旅行中、隻眼で片足が不自由ながら陽気なテバ伯爵ドン・シプリアーノ・パラフォクス・イ・ポルトカレッロと親しくなりました。
マドリードにあるドン・シプリアーノのアパルトマンに招待されたメリメはふたりの幼い姉妹を紹介されました。
姉はパカ(Paca)という愛称のマリア・フランシスカ、妹はマリア・ウジェニー(スペイン語では“エウヘニー”と発音。愛称としても使われていた)でした。妹のウジェニーは後にフランス第2帝国皇帝ナポレオン3世の皇后となります。
ドン・シプリアーノは大のフランス贔屓でしたし、隻眼と不自由な足の訳もフランス軍とスペイン、ポルトガル、英国連合軍との間で勃発したスペイン戦争(1808-1814)においてスペイン貴族でありながらフランス軍に従軍して負傷したことによるのでした。
メリメはスペインの風土と文化を深く愛し、たびたびドン・シプリアーノ宅を訪問し、パカとウジェニーの成長を親しく見守ることになりました。沈み込んだり、感情を爆発させたりしがちなウジェニーをメリメは「毛むくじゃらの雌獅子」と呼んだりもしました。
1842年、一家は第15代アルバ公爵ヤコブ・フィッツ=ジェームズ・スチュアートの訪問を受けました。若い公爵はこの時二十歳。妃候補となりうる名門の淑女たちとの逢瀬を求めてのことであったろうと思われます。
公爵は姉妹にとっては従弟でもありました。黒髪と顎鬚、少し影があるようにも思える青年貴族に姉妹は夢中になりました。母のもくろみは姉のパカを嫁がせることでしたが、恋心に燃え上がった“毛むくじゃらの雌獅子”ウジェニーを静止しかねました。さまざまな曲折を重ねた末、母の思惑と姉の涙に負けてウジェニーが身を引き、公爵とパカとの婚姻が整うこととなりました。
傷心のウジェニーは修道院へ入ろうと考えたり、自殺しようと牛乳にマッチの燐を入れて飲んだりもしたようです。
時間がたつにつれ、輝くように美しい人参色の髪をした“高貴なじゃじゃ馬”には花婿候補が殺到するようになりましたが、姉が公爵夫人となったことが災いしてか縁談はなかなかまとまらず、“鉄の処女”と揶揄されることもあったようです。
ナポレオン3世(Charles-Louis Napoléon Bonaparte:1808-1873)
ナポレオンの甥という出自を手だてとして、権力と富の獲得に奔走するルイ・ナポレオンはたびたびクーデターを企て、国外追放、幽囚、脱獄などを繰り返していました。
1848年2月、フランスはルイ・フィリップによる王制が崩壊しました。(パリ2月革命)
亡命先ロンドンからフランスの政治情勢を見定めていたルイ・ナポレオンは9月にパリに戻り、議会議員補欠選挙に出馬して当選を果たしました。さらに同年の12月に行われた第2共和政大統領選挙にも立候補し、“ナポレオン”の名が効果を奏したのか圧勝し大統領に就任します。
1851年12月2日、議会との軋轢に業を煮やしていたルイ・ナポレオンは綿密な計画をめぐらせ、警察を使って議員たちを逮捕するというクーデターを起こしました。(「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日のクーデター」)
1852年、ルイ・ナポレオンは国民投票を受けて皇帝に即位し、自らをナポレオン3世と称するようになりました。
漁色に明け暮れ評判の良くなかったナポレオ3世は、このときもロンドン時代からの愛妾ミス・ハワード(実際には結婚していたので“ミス”ではない)を日常の伴侶としていました。しかし、フランス皇帝としての体面上“皇后”の存在が求められていました。
1853年、ナポレオン3世(45歳)とウジェニー(27歳)は婚約し、同年末には結婚式をあげました。ウジェニーはナポレオン3世のひどい漁色癖は承知のうえだったでしょう。しかし、“皇妃ウジェニー”の響きにはうっとりしたのではないでしょうか。恋する公爵をかつて奪った姉パカは“公爵夫人”でしかなかったのですから。
ナポレオン3世はすぐに漁色癖を取り戻したようで、ミス・ハワードとの仲も元の鞘に収まったようですが、ナポレオン3世は皇嗣の誕生を望み、ウジェニーもそれを望んでいたことでしょう。しかし、ウジェニーの初めての妊娠は流産に終わり、周囲の期待を裏切りました。
1856年、二人の間に待望の男児が誕生しました。ナポレオン・ウジェーヌ・ルイ・ボナパルト(Napoléon Eugène Louis Bonaparte:1856-1876)です。こ待望の男児誕生はナポレオン4世とも呼ばれ、フランス中の祝福を浴びました。
皇妃ウジェニーと皇嗣誕生を祝い、バラにその名が残されています。
1855年、アンペレラトリス・ウジェニー(Impératrice Eugénie)hybrid bourbon, Béluze
1856年、アンペレラトリス・ウジェニー(Impératrice Eugénie) moss by Jean-Baptiste (père) Guillot
1858年、アンペレラトリス・ウジェニー(Impératrice Eugénie) HP by Pierre Oger
1860年、フランスのボルドーのバラ育種家ラトレー・フィスは皇嗣ルイの誕生を記念して“アンファン・ド・フランス(Enfant de France:”フランスの子/皇嗣の意“)を公表しました。
明るいピンク、花芯が色濃く染まる美しい大輪花、返り咲きする性質をそなえたハイブリッド・パーペチュアル(HP)です。
実はこの品種名は早逝したナポレオン・ボナパルトの嫡子ナポレオン2世が誕生したときにも使われていましたので、新たな“フランスの子”と命名したのだと思われますが、同名品種がいくつか残されることになり、後の時代には混同しがちになってしまいました。
ナポレオン2世にちなんだバラ
1817年、Enfant de France (gallica, syn. ‘Roi de Rome’)
1826年、Enfant de France nouveau
ナポレオン4世にちなんだバラ
1860年、Enfant de France (Hybrid Perpetual, Lartay, 1860)
1870~1871年、フランスはスペインの王位継承問題を巡ってビスマルクが主導するプロシャと対立し、フランス対プロシャおよびドイツ連邦との間で戦闘が勃発しました。(普仏戦争)
フランスはセダムの戦闘でナポレオン3世自身が捕虜となったうえ、パリ占領されるというみじめな敗北を喫しました。
ナポレオン3世は、退位し、ウジェニーとルイ(ナポレオン4世)を伴って英国へ亡命しました。
1873年、ナポレオン3世は死去。ウジェンヌは更なる不幸に襲われます。
1879年、英国軍に入隊していたルイ(ナポレオン4世)はズールー戦争に従軍中に戦死してしまったのです。
ナポレオン3世、嫡子である4世をともに失ったウジェニーは余生を英国南部のヨークシャー、ファーンバラの館で、静かに、しかし、寂しくで過ごしていましたが、1920年、姉パコの孫にあたるアルバ17世公爵をマドリードに訪問している際に死去しました。94歳の大往生でした。
アレクサンドラ・オブ・デンマーク(Alexandra of Denmark:1844-1925)
アレクサンドラ・オブ・デンマークはイギリス連合王国皇太子であったエドワードと結婚し、エドワードがヴィクトリア女王のあとエドワード7世として王位を継いだことで、英国王妃、インド帝国皇后となりました。
アレクサンドラは、“シシー(Sissi)”や“エウヘニー(Eugenie)”のように美貌の皇妃として、後の時代にも語り継がれるほど著名ではありませんでしたが、彼女たちと同じ時代に生き、美貌を誇った高貴な女性のひとりです。
デンマークの王族、グリュックスブルク公子クリスチャンとその妃ルイーセの長女として誕生したアレクサンドラは父がデンマーク王位を継ぐまでは財力に乏しく、つましく暮らしていたようです。
1863年、国王の系統からは遠かった父、皇嗣が誕生せず、はからずもデンマーク国王クリスチャン9世として王位につくことになりました。一家の生活環境は一変し、妹のダウマー(マリー・ソフィー・フレゼリケ・ダウマー:Marie Sophie Frederikke Dagmar、のちロシア皇帝アレクサンドル3世の皇后)とともに、美貌の王女としてヨーロッパ中に知れ渡ることになりました。
英国のヴィクトリア女王は、こうした評判を聞きつけ、皇太子アルバート・エドワードとアレクサンドラとの婚姻をはかります。アルバートの際限のない女性遍歴に手を焼いていたことから、早く身を固めさせようとしたのだと言われています。
1863年、ふたりは盛大な結婚式をあげ、アレクサンドラはプリンセス・オブ・ウェールズの称号を得ることになりました。エドワード21歳、アレクサンドラ18歳でした。
1901年、ヴィクトリア女王が死去し、エドワードはエドワード7世として王位に就き、アレクサンドラは英国王妃となりました。
夫アルバートの女性遍歴は結婚後も耐えることがなったことは、あらかじめ予想されていたこでしょうが、アアレクサンドラは、シシーのように帝国の儀礼をさけて旅に明け暮れたり、ウジェニーのように“男の女遊び”の悪評を受け流す寛容さは持ち合わせいなかったようです。
絶えず聞こえてくる夫の醜聞にいらだち、屈辱に耐えかねて鬱屈し、夫の愛人たちを憎み口汚くののしるのが常であったとのことです。とくに、エドワード7世が “La Favorite(お気に入り)”と呼んでいた愛妾アリス・ケッペル(Alice Keppel)は死期をさとったエドワード自身が枕元へ呼び寄せたにもかかわらず、アレクサンドラが彼女を病室に近づけなかったとのことです。(Wikpedia記事、202411-24検索)
シシーもウジェニーも愛する長男の死にあいという不幸に打ちひしがれたことにはすでに触れましたが、アレクサンドラも1892年、長男で王位継承者(次代のプリンス・オブ・ウェールズ)と目されていたアルバートをインフルエンザによって失うという不幸に直面することになってしまいました。
美貌を歌われたアレクサンドラでしたが、実は瘰癧(るいれき:結核性のリンパ節の炎症)の後遺症で頸部に傷痕が残っていて、残された彼女の肖像画からもわかりますが、傷跡を隠すために髪をたらしたり、チョーカーで首回りを覆ったりすることが常でした。
1910年、エドワード7世、死去。わずか10年ほどの王位でした。
アレクサンドラは1925年に死去しました。
なぜプリンス・オブ・ウェールズが皇太子なのか?
14世紀初頭、イングランドがウェールズを征服したことをゆるぎないものにするため、身重の王妃をウェールズにやり、誕生した男児(嫡子)をウェールズの支配者、プリンス・オブ・ウェールズに任じたことによります。
皇太子妃はそれによりプリンセス・オブ・ウェールズと呼ばれることになりました。その慣例は14世紀初頭から今日まで続いていることは、ご承知のとおりです。
アレクサンドラ皇太子妃にささげられたバラが今日まで伝えられています。
Princess of Wales, Light Pink HP, 1871 by Thomas Laxton
なお、1997年8月31日、フランス・パリで交通事故を起こして死去したダイアナ妃にも皇太子妃時代に同名のバラが捧げられています。
Princess of Wales, White Floribunda, 1997 by Harkness
Diana, Princess of Wales, Light Pink Hybrid Tea, 1998 by Dr. Keith W. Zary
1890年代、美貌が讃えられた3人の皇妃、王妃たちをご紹介しました。
シシーとアレクサンドラはヴィクトリア女王主催の晩餐会で顔を合わせ、しばし会話を交わしました。
シシーとウジェニーもザルツブルグで対面を果たしましたので、美しい3人の皇妃、王妃たちは親しいという仲ではなかったのですが、たがいに見知っていた仲ではありました。