バラ、特にオールドローズが好きで名前の由来や育種の経緯などを調べています。
宿根草や葉色が美しい草花や灌木などをアレンジしたバラ咲く庭を愛でるのも長年の夢です。

オミナエシ(女郎花)

オミナエシ(Ptrinia scabiosifolia)

オミナエシPatrinia scabiosifolia):多年生草本

  • 学名:オミナエシ科オミナエシ属/Patrinia scabiosifolia
  • 別名:アワバナ(粟花)、思い草、ハイショウ(敗醤;枯れこむと醤油が劣化したときと似通った匂いを放つ)など
  • 花色:鮮黄
  • 花期:8月~10月
  • 原産地:日本、中国など東アジア
  • 草丈x株幅:70㎝x60㎝

夏から秋にかけ、60㎝から90㎝ほどに伸び上がった花茎に鮮やかな黄色・穂状の花序をつけます。開花を長く楽しめるのはうれしい特徴です。秋の七草のひとつとして万葉の時代から愛でられてきました。

冬に地上部が枯れ、春に萌えるように根出し葉を伸ばしてきます。やがて、脇から新たに花茎を伸ばして立ち上がり、ここに花穂が形成されます。
花茎の葉は大きく裂け、根出し葉とはかなり異なる形状となることが多いので、不思議な印象を受けます。

品名、学名などの由来

学名Patriniaはフランスの鉱物学者ウジェンヌ・L・M・パトラン(Eugene L. M. Patrin :1724-1815)にちなんで命名されました。
パトランは1780年から1787年にかけ、シベリア、アジアの鉱物と植物の採集を行いました。
小種名scabiosifoliaは”スカビオサに似た葉”の意味です。

同属、異種など

オミナエシ属(Patrinia)にカテゴライズされる原種は白花のオトコエシ(男郎花:Patrinia villosa)など数種ほど、いくつかは日本を原産地としています。

オトコエシ(男郎花)
‘オトコエシ(男郎花)’ Photo/Qwert1234 [Public Domain via Wikimedia Commons]

和歌、物語などのなかで

万葉集から
山上憶良が残した「秋の野に咲きたる…」の歌では愛でるべき七つの草花をあげていました。このことは「キキョウ(桔梗)」の記事でも触れましたが、オミナエシもまた歌でとりあげられた七つの草花のひとつです。

秋の野に 咲きたる花を 指折りて かき数ふれば 七種
ななくさ
の花(『万葉集』巻8-1537)
萩の花 尾花葛花
おばなくずはな
 なでしこの花をみなへしまた藤袴
ふぢばかま
 朝がほの花(『万葉集』巻8-1538)

また、中臣郎女(なかとみのいらつめ)が若き貴公子大伴家持におくった歌。オミナエシはここでは、奈良の南、佐紀沢の掛詞のように用いられています。

をみなへし佐紀沢(さきさは)に生ふる花かつみかつても知らぬ恋もするかも『万葉集』巻48-675、中臣郎女)

(オミナエシ咲く佐紀沢に群れ咲く花かつみ(花菖蒲か)はかつて知れないほど恋焦がれているのですよ)


ただ、オミナエシは当時の万葉かなでは、「娘部四」、「娘子部四」などと表記されていて、女人を表す語彙ではあったものの、”妖しさ”ただよう「女郎花」という表記ではありませんでした。

古今和歌集から
オミナエシに「女郎花」と当てるようになったのは平安時代、古今和歌集の時代になってからのようです。

古今和歌集の仮名序で、六歌仙のひとりとしてあげられた良岑 宗貞(よしみね の むねさだ)は仁明天皇の治世下、蔵人頭として活躍していました。天皇の崩御にしたがい、出家して遍照と名乗り生涯の終わり近くには僧正という高位へ昇りつめました。
出家前はさぞ浮名を流したのでしょう、百人一首にも選ばれた次に歌からも少々浮かれたところがあったことがうかがえます。

天つ風 雲の通ひ路 吹きとぢよ をとめの姿 しばしとどめむ(『小倉百人一首』12番歌)

遍照はとりわけオミナエシの美しさを愛でていたようです。

名にめでて  折れるばかりぞ  をみなえし  我おちにきと  人にかたるな(『古今和歌集』226歌、僧正遍昭)

秋の野に なまめきたてるをみなえし あなかしかまし 花もひととき(『古今和歌集』1016歌、僧正遍昭)

226歌、「女の名をもつおまえに迷って落ちた(落馬した)と他の人につげぐちするなよ」、1016歌「なまめいている女(女郎花)よ、美しく咲き誇るのもほんのひと時のことだぞ」と僧侶らしく説教じみた歌を残していますが、女郎花が女人の妖艶さをあらわす言葉であったことが分かります。

余談ですが、江戸時代、松尾芭蕉は伊賀から江戸へ出たまだ若い時代、この遍照による226歌を受けて次の句をよんでいます。

見るに我も折れるばかりぞ女郎花

江戸時代には、女郎花はあでやか女の代名詞となっています。

能『女郎花(おみなめし)』

紀貫之による古今和歌集・かな序には注釈書である『古今和歌集序聞書』(三流抄:「古今に三の流あり。一に定家、二に家隆、三に行家」という書き出しで始まるので「三流抄」とも呼ばれている)があります。この注釈書に記載されてる女郎花の説話があり、謡曲としても伝えられていました。この説話・謡曲をもとに室町時代になって亀阿弥(異説あり)が書きあげたのが能『女郎花(おみなめし)』です。あらすじは次のようなものです。

平安時代の初期にあたる806年から808年、平城天皇の時代に小野頼風(おののよりかぜ)という人が(京都西部の)八幡に住んでいました。
彼は京の都で仕事に就いていて、京の女性と深い契りを結んでいました。その後、頼風は八幡に帰ってしまうと、いつしか二人の間に秋風が吹くようになっていました。
京の女性は思いあまって八幡へと頼風を訪ねてきました。しかし、頼風が他の女と暮らしていることを知り、悲嘆のあまり放生川の上流「泪川(なみだがわ)」に身を投げて死んでしまいました。やがて、川のほとりに彼女が脱ぎ捨てた山吹重ねの衣が朽ちて、そこから女郎花が咲きました。

頼風がこの話を聞いて、花の元に寄ると、花は恨んだ風情をたたえながら頼風を嫌うように遠退き、離れると元のようになるのを見て、頼風は「それほどまでに私を恨んで死んだのか」と、自責の念にかられ、同じように放生川に身を投げて死んでしまいました。人々はこれを哀れみ、二人の塚を築いたといいます。(Wikipedia “オミナエシ”, 2025.01.29閲覧)