バラ、特にオールドローズが好きで名前の由来や育種の経緯などを調べています。
宿根草や葉色が美しい草花や灌木などをアレンジしたバラ咲く庭を愛でるのも長年の夢です。

ワレモコウ(吾亦紅)

ワレモコウ(Sanguisorba)

ワレモコウ(吾亦紅、Sanguisorba officinalis):多年生草本

  • 学名:バラ科ワレモコウ属/Sanguisorba officinalis
  • 別名:サンギソルバ(サングイソルバ)、グレーター・バーネット(Greater Burnet)など
  • 花色:深紅
  • 花期:7月~10月
  • 原産地:日本を含む北半球全体
  • 草丈x株幅:90㎝x60㎝

秋、長く伸びた茎が分岐し先端に深紅の小さな穂状花序をつけます。花弁がないため花がひしめく合うように密集し、小さな実がなっているように見えます。
長い花穂が風にゆれる姿が暮れゆく秋の情景をしみじみと感じさせるのでしょう、万葉の時代から今日まで深く愛されています。

下記したように、ハーブのバーネットと同属ですので、口に入れても支障はありません。また、根茎には止血や鎮痛、防腐、解毒などの薬効があると語り継がれ、昔から漢方薬として尊ばれました。

品名、学名などの由来

学名Sanguisorbaはラテン語のsanguis(”血”)とsorbeo(”吸収”)から。種小名のofficinalisはラテン語の”薬剤師”の意味ですので薬草として用いられたことがわかります。
したがってフルの学名Sanguisorba officinalisの意味は”薬剤師用血止め薬”といったところでしょうか。

同属、異種、園芸種など

Sanguisorbaは全世界で30種ほどが知られています。ワレモコウ(S. officinalis)の他に園芸植物として利用されている主な原種は次の三種です。

原種名原産地草丈流通名、特徴など
オフィキナリス
S. officinalis
日本を含む北半球全体草丈90~120 ㎝ワレモコウ(吾亦紅)
カナディエンシス
S. canadensis
カナダ、アメリカ北部草丈90~120 ㎝白花種
ハクサエンシス
S. hakusanensis
日本、中部地方以北の日本海側の高山草丈60~90㎝”カライトソウ”の名称で流通
ミノール
S. minor
ヨーロッパ中南部草丈30~50㎝ハーブ”サラダ・バーネット”のことです。
S. canadensis
S. hakusanensis
S. minor

和歌、物語のなかで

ワレモコウ(吾亦紅)は寂しげな秋の風景に趣を添える草として古くから知られていましたが、題材として取り上げられる例は意外なほど少ないです。
むしろ近代に入ってから、和歌や俳句として歌い込まれることが多くなったように思います。

源氏物語、巻42、『匂宮(においのみや)』

源氏亡き後、物語はふたりの貴公子、薫と匂宮をめぐって進んでゆきます。
生まれつき香しさが漂う薫に対し、匂宮は美しい花には目もくれず、香る草花を愛でています…

御前おまえ前栽せんざいにも、春は梅の花園をながめたまひ、秋は世の人のめづる女郎花おみなえし小牡鹿さおしかの妻にすめるはぎの露(註)にもをさをさ御心移したまはず、老を忘るる菊に、おとろへゆく藤袴ふじばかま、ものげなきわれもかうなどは、いとすさまじき霜枯れのころほひまで思し棄てずなどわざとめきて、香にめづる思ひをなん立てて好ましうおはしける

(お庭先の植え込みでも、春は梅の花園をお眺めに。秋は世間の人が愛する女郎花や小牡鹿が妻とするような萩の露にも少しもお心を移しなさらず、老を忘れたかのようにいつまでも咲きつづける菊に、枯れ姿のまま立ち続ける藤袴、また、見栄えのしない吾亦紅など、愛でるほどもない草姿を霜枯れのころまでお忘れにならないなどというふうに、ことさらめいて、香を愛する思いを好んでいらっしゃるのであった)


(註)”小牡鹿さおしかの妻にすめるはぎの露”。
万葉の時代、雌を求め捜す牡鹿と萩との組み合わせはしみじみと秋の風情を感じさせる風物として枕詞のような一種の定番表現となっていました。以下の例をご参照ください。

『さを鹿の朝立つ野辺の秋萩に玉と見るまで置ける白露』万葉集、巻8、1598番歌(大伴家持)

『秋萩の咲きたる野辺はさ牡鹿ぞ露を別けつつ妻どひしける』万葉集、巻10、2153番歌(読み人知らず)


若山牧水明治四十三年(1910)刊の第三歌集『別離』
ひとつ年上の人妻、園田小枝子さんとのロマンスを詠った歌集「別離」のなかから。

吾木香
われもかう
すすきかるかや秋くさのさびしききはみ君におくらむ
(吾亦紅、ススキ(薄)、そしてカルカヤ(刈萱)。 秋草の寂しさの極みを、あなたに贈ろう)

原民喜『吾亦紅』草木の項

原民喜は、1944年、妻に先立たれ千葉船橋から故郷の広島へ帰郷しました。そして、1945年8月6日、爆心地近くの実家で被爆しました。
癒されることのない悲しみと原爆の悲惨さを原民喜は詩集『原爆小景』や短編小説集『夏の花』繰り返し語り続けました。被爆症と思われる体調不全と貧困とに苦しみ続け、1951年に知人たちに多くの遺書を残して鉄道自殺をしました。

最初その小さな庭に、妻と二人でおりたち、前の借主が残して行った、いろんな草木を掘返した時の子供っぽい姿が、――素足で踏む黒土の鮮やかなにおいとともに――今も眼さきに髣髴とする…

 一つ一つはもう憶い出せないが、私は妻とあの土地で暮した間、どれほどかずかずの植物に親しみ、しみじみそれを眺めたことか。妻が死んだ翌日、仏壇に供える花を求めて、その名を花屋に問うと、われもこう、この花を、つくづくと眺めたのはその時がはじめてだった。が、その花を持って家に帰る途中、自転車の後に同じ吾亦紅と薄の穂を括りつけてゆく子供の姿をふと見かけた。お月見も近いのだな、と私はおもった。