バラ、特にオールドローズが好きで名前の由来や育種の経緯などを調べています。
宿根草や葉色が美しい草花や灌木などをアレンジしたバラ咲く庭を愛でるのも長年の夢です。

コント・ド・シャンボール(Comte de Chambord)

コント・ド・シャンボール(Comte de Chambord)

どんなバラ?

カップ型・クォーター咲きとなります。優雅な花形に花弁がぎっしりと詰まり、いかにもオールドローズらしい花形。
ミディアム・ピンクとなる花色、花芯がいくぶんか色濃く染まります。
ダマスク系の強い香り。
120cmから180㎝高さのシュラブとなります。

美しい花形、鮮烈なダマスク香、細めだけれども固く直立する樹形などのダマスク・パーペチャルの最高レベルにある品種だと言ってよい品種ですが、さらに、それを超え完成の域に達したオールドローズのひとつだと言ってもいいと思います。

育種の経緯

フランスのロベール・エ・モロー(Robert et Moreau)により育種されたというのが通説です。育種年は正確にはわからず、1858年以前にだとされています。

  • 種親:ピンクのHP、バロネ・プレヴォ(Baronne Prévost)
  • 花粉:ダマスク・パーペチュアル(DP)のダッチェス・オブ・ポートランド(Duchess of Portland)
バロネ・プレヴォ(Baronne Prévost)
ダッチェス・オブ・ポートランド(Duchess of Portland)

コント・ド・シャンボールは、花色、花形、香りなどばかりではなく、葉色、樹形など多くをバロネ・プレヴォから受け継いでおり、赤花または濃いピンクの花を咲かせるダッチェス・オブ・ポートランドの特徴はあまり見出すことはできません。

取り違え?よく似た品種がいくつもあります

このコント・ド・シャンボールに酷似している、いや、同じ品種だと言われる品種がふたつあります。

マダム・ボール(Mme. Boll)
マダム・クノール(Mme. Knorr)

マダム・ボール(Mme. Boll)

アメリカのダニエル・ボール(Daniel Boll)が1859年に育種し、夫人に捧げました。

いずれかのHPとピンクのダマスク、ベル・ファベール(Belle Fabert)との交配により育種されたと言う説が有力ですが、ピンクのHP、バロネ・プレヴォ(Baronne Prévost)とダマスク・パーペチュアルの元品種、デュセス・オブ・ポートランド(Duchesse of Portland)との交配によるという異説もあります。

後者の組み合わせ交配は、お気づきかもしれませんがコント・ド・シャンボールと同じであるため、今日コント・ド・シャンボールとして流通している品種は実際にはマダム・ボールではないかという説(B.C. Dickerson, 等)もあります。
また、マダム・クノール(Mme. Knorr)もよく似た品種であるため、これも同じ品種ではないかという説もあります。

コント・ド・シャンボール~ブルボン王家の血統にある伯爵

シャンボール伯爵(Henri Charles Ferdinand Marie Dieudonne d’Artois, Comte de Chambord:1820-1883)は復古王政時のフランス王シャルル十世の孫にあたります。王政、共和制とめまぐるしく変転する19世紀フランス政界にあって、ブルボン家の家督を継ぐ者として王政復古派のシンボルに祭り上げられた人物です。この品種が捧げられたときはフランス国内にはおらず亡命中でした。

‘アンリ・ダルトワ、コント・ド・シャンボール(Henri d’Artois’, comte de Chambord)の肖像’ Painting/ Adeodato Malatesta [Public Domain via. Wikipedia Commons]

この品種が伯爵に捧げられた後のことになりますが、シャンボール伯爵は歴史的な事件の当事者として登場します。

1870年:
フランスは当時皇帝ナポレオン3世の統治下で、プロシャとの間に戦争(普仏戦争)が勃発していました。
ナポレオン3世は、宰相ビスマルクが率いるプロシャとの戦闘に自ら出陣しましたが、捕虜となってしまうなど屈辱的な敗北を喫し、同年、退位を余儀なくされました。3世は英国へ亡命。
1873年:
フランスは帝政から王政復古をめざしました。シャンボール伯爵は王政復古派のシンボルとされ、王位へ就く寸前までゆくことになります。

王として議会へ導き入れられ、議員たちからも賛同の拍手をもって迎え入れられました。しかし、フランス革命の象徴である三色旗(青=自由、白=平等、赤=博愛)の承認を求められたことに対し、白色旗(ブルボン家の白百合の紋章)に固執し承認を拒絶したことから議員の失望を買い、最終的には王位へ就くことはありませんでした。

シャンボール伯は1883年に死去。
伯爵には嫡子がなく、彼が死去したことにより、ついにブルボン家は絶えました。これにより、王政復古派のもくろみはその根拠を失いました。

また、彼の死の4年前、1879年、ナポレオン3世の嫡子ナポレオン・ウジェーヌ・ルイ・ボナパルト(ナポレオン4世)も英国軍士官として参戦したルーズ―戦争の前線で戦死してしまい、ナポレオン血統による政権復活をもくろんでいたボナパルティストたちの希望も潰えていました。

フランスを独裁的に支配していた王統ブルボンと皇帝ナポレオンの血統はともに潰え、フランスはそれから後、今日にいたるまで共和制のもとにあります。