バラ、特にオールドローズが好きで名前の由来や育種の経緯などを調べています。
宿根草や葉色が美しい草花や灌木などをアレンジしたバラ咲く庭を愛でるのも長年の夢です。

アンペラトリス・ジョゼフィーヌ(Impératrice Joséphine)

アンペラトリス・ジョゼフィーヌ(Imperatrice Josephine)

どんなバラ?

7cmから9cm径ほどの中輪、オープン・カップ形、または丸弁咲きとなります。花弁がすこし乱れ気味となることが多い花形です。
花色は少しグレーイッシュな強めのピンク、外輪部は淡く色抜けします。
強く香ります。
楕円形の、くすみのある深い葉緑、120cmから180cm高さほどの比較的中型のブッシュとなります。枝ぶりは細く、しなやかでトゲの少ない品種です。

育種者、育種年

資料としての初出はジャン-ピエール・ヴィベール(Jean-Pierre Viber)が1820年から発行していたバラ解説書『バラの命名とクラス分けに関する考察(Observations sur la Nomenclature et le Classement des Roses)』の1820年版です。デスメによる作出というコメント付きでリストアップされています。
デスメがヴィベールへ商権、施設などを移譲したのが1815年でしたので、1815年以前にジャック=ルイ・デスメ(Jacques-Louis Descemet )により育種されたことがわかります。

ガリカにクラス分けされることが多いのですが交配親の詳細は不明です。しかし、葉や株の様子は典型的なガリカのものではありません。葉の形状などは、原種交配種であるロサ・クロス・ フランコフルターナ(Rosa x francofurtana)と類似しているため、その交配種を用いて育種されたのではないかと推察されています。(”La Rose de France” 、Francois Joyaux, )

ジョゼフィーヌとナポレオン

Painting/François Gérard, 1801 [Public Domain via Wikimedia Commons]

アンペラトリス(”皇后”)・ジョゼフィーヌとはナポレオンの最初の妻、ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ(Joséphine de Beauharnais:1763-1814)のことです。
ナポレオンは、兄嫁の妹デジレ・クラリー( Désirée Clary)と婚約していたのですが、それを反故にして貴族の未亡人であった、ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネと結婚しました。ジョゼフィーヌはナポレオンより6歳年上、このとき、前夫との間に、ウジェンヌ(後のイタリア副王)とオルタンス(後のオランダ王妃、ナポレオン3世の母)という一男一女をもうけていました。
1796年、革命政府からイタリア方面の司令官に任命されたナポレオンは、ミラノ方面からウィーン郊外までオーストリア軍を追い詰めて屈服させ、翌年凱旋帰国します。さらに、その翌年、1798年、イギリスの制海権を牽制する戦略を立て、エジプトへ出兵します。こうした煩雑さの中でしたが、同じ年にパリ郊外のマルメゾン館を購入しました。妻ジョゼフィーヌは館でナポレオンの帰国を待つこととなりました。

Illustrating/Ernst Keil, 1871 [Public Domain via Wikimedia Commons]


しかし、ナポレオンと結婚する前は、社交界で浮名を流していたジョゼフィーヌのこと、パリ郊外での平穏な日常には飽き足らなかったのでしょうか、つつましやかに夫の帰りを待っていたわけではなく、絵画や宝石の槐集に精をだすようになります。美男の陸軍将校イポリット・シャルルとの不倫が取り沙汰されたのもこの頃のことです。

また、ジョゼフィーヌはもとはマリー・ジョゼフ・ローズ(Marie Josephe Rose)という名前だったこともあってか、マルメゾン館を囲む庭造りに情熱を燃やすようになります。ジョゼフィーヌのバラ・コレクション熱は尋常のものではなく、当時の著面な園芸研究家、ガーデン・デザイナー、庭師などを雇い入れ、さらに外交官や軍人にまで、貴重品種の槐集を依頼するほどのものでした。
スコットランド人で当時パリでガーデン・デザイナーとして著名であったトーマス・ブレーキー(Thomas Blaikie)に庭造りをさせ、アイルランド人で、当時はロンドン郊外のハマースミスで農場を経営していたのジョン・ケネディ(John Kennedy)には珍種の草花を納入させたという記録が残されています。英仏間が戦争状態であった時期であるにもかかわらず、ケネディは両国間を自由に行き来できるパスポートを持っており、英国からバラ苗がマルメゾンへ運ばれました。

とくに、園芸研究家であったアンドレ・デュポン(Andre Dupont )にバラの収集を命じるころから、ジョゼフィーヌは憑かれたようにバラの収集に熱中するようになります。1804年から1814年、ジョゼフィーヌが死去するまでの十年間に収集された品種は250種ほど、
ガリカ、167種
ケンティフォリア、27種
モス・ローズ、3種
ダマスク、9種
チャイナ、22種
ピンピネリフォリア、4種
アルバ、8種
フォエティダ、3種
原種であるムスク・ローズ、ロサ・アルピナ、ロサ・バンクシアエ(モッコウバラ)、ロサ・ラエヴィガータ(難波イバラ)、ロサ・ルブリフォリア、ロサ・ルゴサ(ハマナス)、ロサ・センパーヴィレンス、ロサ・セティゲラ
といったものだったと言われています。(”The Complete Book of Roses”, Gerd Krüsmann)

このコレクションは当時入手可能な品種ほとんどすべてを集めたものと言ってよいほど徹底したものでした。ジョゼフィーヌのもとで収集を行ったバラ園主たちは、後にこのコレクションを交配親として次々と新たな品種を生み出すこととなります。19世紀中葉から末にかけて、フランスはバラ育種の中心地として繁栄し、それが次第に他のヨーロッパ各国に伝わってゆくことになりますが、その、バラが”花の女王”としての地位を確立するにあたって、ジョゼフィーヌに礎が築かれたと言ってよいでしょう。