GGROSARIANhttps://ggrosarian.comバラと宿根草Fri, 20 Dec 2024 02:44:29 +0000jahourly1https://ggrosarian.com/wp-content/uploads/2024/10/logo_5-150x150.pngGGROSARIANhttps://ggrosarian.com3232 三種の白花ダマスクhttps://ggrosarian.com/2024/12/20/%e4%b8%89%e7%a8%ae%e3%81%ae%e7%99%bd%e8%8a%b1%e3%83%80%e3%83%9e%e3%82%b9%e3%82%af/Fri, 20 Dec 2024 02:39:25 +0000https://ggrosarian.com/?p=2211白花のオールドローズ=アルバ?

7cm径を超える中・大輪花を咲かせる、オールドローズのなかで白花を咲かせる品種は花形や葉などに、ガリカ、ケンティフォリア、ダマスクなどのそれぞれのクラスの特徴があっても、”白花”であることからアルバにクラス分けされる例が多くなっています。

しかし、品種によっては白花を咲かせるものの、クラス=アルバとするだけでは特徴を概括できないので、葉や茎に小さなトゲが密生していかにもガリカ風であるときには、クラス=アルバ/ガリカといったふうにクラスをまたがった表示とすることもあります。

ただし、モスは例外で、白花を咲かせても茎に生じる”苔”をクラス分けの指標として、”白花のモス”とクラス分けがなされ、今日までいくつも残されています。

三種の白花ダマスク~ほんとうにダマスク?

今回、ダマスクローズの見直しを行い、白花ダマスクを三つ紹介させていただきました。いまだ実現できないでいますが、いつの日か、三つの白花ダマスクを並べて鑑賞したいものだと思っています。

マダム・アルディ(Mme. Hardy)
マダム・アルディ
マダム・ゾートマン(Mme. Zoetmans)
マダム・ゾートマン
ボッツアリス(Botzaris)
ボッツアリス

マダム・アルディ
ダマスクの名花としてよく知られていて、クラスの代表種となっています。しかし、グラハム・トーマスは、
「純粋なダマスクではなく…一部はケンティフォリアに由来していると考えられる…完璧と言える花形は(他には)ガリカ・ローズの一部にしか見出すことができない」
と言っています。

マダム・ゾートマン
あまりにもマダム・アルディに似ているのでダマスクにクラス分けされていると言っていいのではないでしょうか。
例によってグラハム・トーマスはこの品種がダマスクであることに疑問を抱いていて、開花当初、淡くピンクが出ることが多いことを指摘し、
「…ガリカのデュセス・ド・モントベロ)によく似ている」
と述べています。

ボツァリス
花形、葉や枝ぶりの形状からダマスク種のひとつとされていますが、グラハム・トーマスやクルスマンなど著名な研究家は、白花であること、本来のダマスクの香りとは微妙に異なることなどから、交配にはアルバが関わったと考えていたようです。
もう一度、グラハム・トーマスに登場してもらいましょう、
「とれもきれいな小さなバラで、花色の白と際立った香りはおそらくロサ・アルバに由来しているのだろう。ヒップ(結実)も本来のダマスクのものではない…」

中・大輪のオールドローズのうち、ケンティフォリアには”ブランシェフルー”など、少ないながらも白花品種があります。
モスは茎に生ずる”苔”が特徴的なので、白花でもモスにクラス分けされるものが何種かあります。
しかし、ガリカにはほんの一部、淡いピンク花から枝変わりした白花ガリカがあるだけで白花は皆無に近いというのが現状です。デュセス・ド・モントベロなど、淡いピンクに花開くガリカは、もっとも美しいオールドローズとして挙げられることが多いですが、白花を咲かせるガリカをがあるのであれば、やはり数少ない白花のケンティフォリアとともにじっくりと鑑賞したいものだと思います。

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スタンウェル・パーペチュアル(Stanwell Perpetual)https://ggrosarian.com/2024/12/18/%e3%82%b9%e3%82%bf%e3%83%b3%e3%82%a6%e3%82%a7%e3%83%ab%e3%83%bb%e3%83%91%e3%83%bc%e3%83%9a%e3%83%81%e3%83%a5%e3%82%a2%e3%83%ab%ef%bc%88stanwell-perpetual%ef%bc%89/Wed, 18 Dec 2024 02:16:18 +0000https://ggrosarian.com/?p=2123

7cmから9cm径ほどの、丸弁咲きの花となります。花色は白。あるいは、わずかに筆で掃いたようなピンクが入ります。春の開花後、ぽつぽつと返り咲きします。軽いですが、非常に印象深い独特な香りがします。(中香)非常に小さな、深 ... ]]>

どんなバラ?

7cmから9cm径ほどの、丸弁咲きの花となります。
花色は白。あるいは、わずかに筆で掃いたようなピンクが入ります。春の開花後、ぽつぽつと返り咲きします。
軽いですが、非常に印象深い独特な香りがします。(中香)
非常に小さな、深い色合いの葉、褐色または栗色の鋭いトゲが密生する、野趣あふれる枝ぶり。90cmから120cm高さ、ボリュームのあるシュラブとなります。

市場へもたらされた経緯

ヨーロッパ北部に自生する野生種、ロサ・ピンピネリフォリア(スピノシシマ)とサマー・ダマスクの交配種ではないかとみられています。オータムダマスクの返り咲きする性質により、この品種に、この系列の交配種のなかで、唯一返り咲きが期待できる品種となりました。

R.pimpinellifolia
Autumn Damask

英国、ミドルセックス州、スタンウェルにはジェームズ・リー(James Lee)のナーサリーがあり、バラ苗などの生産をしていました。1824年にリーは死去しましたが、未亡人であるリー夫人の庭園で、返り咲きするバラとして根付いたものが発見されました。
そのバラが1838年に市場に出回るようになり、”Stanwell Perpetual(スタンウェルの返り咲き品種)”と呼ばれるようになりました。
横広がりする枝ぶり、うつむいて咲く淡いピンクに色づいた花など、和風の庭にもよく似合う、しっとりとした深みを感じさせる品種です。

もしこの返り咲きの品種が偶然から生じたのであるとするならば、一季咲きのオールド・ローズと返り咲きする現代バラを掛け合わせて、同じような結果(返り咲きするオールド・ローズ)を作り出せないということはないはずだ…

この品種を入手して観察したデーヴィット・オースチンは著作のなかで、イングリッシュ・ローズの育種を決心するきっかけのひとつとなったと述べています。
しかし、オースチンは自然交配により返り咲き性を得たと理解していたようですが、実際にはチャイナ・ローズなどの返り咲き性の強いクラスとの交配により生み出されたとする説が有力になりつつあるようです。

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ボツァリス(Botzaris)https://ggrosarian.com/2024/12/18/%e3%83%9c%e3%83%84%e3%82%a1%e3%83%aa%e3%82%b9%ef%bc%88botzaris%ef%bc%89/Wed, 18 Dec 2024 01:03:51 +0000https://ggrosarian.com/?p=2161

玉のように丸いつぼみはひだ飾りのような萼片につつまれています。開花した花は7㎝から9㎝径、少しフラット気味なロゼッタ咲き。花芯に緑芽ができることが多い花形です。花色は白、しかし、わずかにピンクが中心部にでることもあります ... ]]>

どんなバラ?

玉のように丸いつぼみはひだ飾りのような萼片につつまれています。開花した花は7㎝から9㎝径、少しフラット気味なロゼッタ咲き。花芯に緑芽ができることが多い花形です。
花色は白、しかし、わずかにピンクが中心部にでることもあります。
強い香り。
たまご形のつや消し葉が美しい、120cmから150㎝高さの中型のシュラブとなります。

育種者について

1856年、フランス、ヴィベール農場を引き継いだフランソワ・A・ロベール(Français-André Robert)が育種・公表しました。
交配親は不明です。
花形、葉や枝ぶりの形状からダマスク種のひとつとされていますが、グラハム・トーマスやクルスマンなど著名な研究家は、白花であること、本来のダマスクの香りとは微妙に異なることなどから、交配にはアルバが関わったと考えていたようです。(“Graham Stuart Thomas Rose Book”, “The Complete Rose Book”)

品種名の由来

ギリシャは1820年代から占有するオスマン帝国から独立をめざし、1830年にそれを果たしました。
この美しいダマスク・ローズは、独立戦争に参戦し英雄となったマルコス・ボツァリス(Markos Botsaris:1790-1823)に捧げられたとも、あるいは独立を果たしたギリシャで王妃付きの侍女としてその美貌を謳われたカテリナ・ロザ・ボツァリス(Katerina “Rosa” Botsari)に捧げられたとも言われています。

Portrait/anonymous [Public Domain via Wikimedia Commons]
’Katerina “Rosa” Botsari ‘ Portrait/Joseph Karl Stieler  [Public Domain via Wikimedia Commons]

マルコス・ボツァリスは1822年から1823 年にかけて勃発した第一次ミソロンギ包囲戦の救援に重要な役割を果たし、ギリシャ革命政府から西ギリシャ将軍の称号を授与されましたが、同年、カルペニシの戦いで戦死しました。

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マダム・ゾートマン(Mme. Zöetmans)https://ggrosarian.com/2024/12/17/%e3%83%9e%e3%83%80%e3%83%a0%e3%83%bb%e3%82%be%e3%83%bc%e3%83%88%e3%83%9e%e3%83%b3%ef%bc%88mme-zoetmans%ef%bc%89/Tue, 17 Dec 2024 02:41:31 +0000https://ggrosarian.com/?p=2159

9㎝から11㎝径、カップ形、ロゼッタ咲きとなりますが、花弁が内側にカールするため全体としては丸みのある花形となります。しばしば花芯に緑芽が生じます。開花時にはわずかにピンクが入ることが多いのですが、しだいに色が薄れ、クリ ... ]]>

9㎝から11㎝径、カップ形、ロゼッタ咲きとなりますが、花弁が内側にカールするため全体としては丸みのある花形となります。しばしば花芯に緑芽が生じます。
開花時にはわずかにピンクが入ることが多いのですが、しだいに色が薄れ、クリーミィ・ホワイトとなる花色。
明るい色合のつや消し葉。90cmから120cm高さの、立ち性のシュラブとなります。

マダム・アルディと似ている点、違う点

名花マダム・アルディと競うと言われるほどの美しい白花ですが、小さな点で違いがあります。

  • マダム・アルディより緑芽の形成は少ない
    マダム・アルディはマダム・ゾートマンの美しさに嫉妬して、”緑の目(芽)”ができるのだと気取った記述も見受けます。目くじら立てるつもりはありませんが、育種・公表年はマダム・アルディのほうが早いので、”嫉妬”ゆえの”緑芽”ではありません。
  • マダム・アルディは純白、ゾートマンはわずかに濁ってクリームになる
  • 細めながら高性となる樹形のマダム・アルディに対し、マダム・ゾートマンは小さな樹形

グラハム・トーマスはマダム・アルディとの酷似をみとめながらも、いくつかの疑問を呈しています。

‘マダム・ゾートマン’. フランスのモロー(Moreau)作出、1836年
花はずっと淡い色合いだが、ガリカのデュセス・ド・モントベロ(Duchesse de Montebello)によく似ている。花はすみやかに退色してゆき、花芯に淡いピンクが残るだけでほとんど白になり、ボタン芽のある多弁の花となる。
葉色は明るい緑となり、これは灰緑の葉色となるデュセス・ド・モントベロとは対照的だ。
早咲き。しなやかで乱れがちな4フィート(120㎝)ほどとなる。
(The Graham Stuart Thomas Rose Book、1994)

育種者はだれ?

 この品種はMme. Söetmansとつづられることもあります。フランス語では読みは同じ”ゾートマン”になるかと思います。

グラハム・トーマスは引用した記事のとおり、育種者をモローとしていますが、ベルギーのR.S. ゾートマン( R. S. Soetemans)が1840年ころ育種・公表したとも、あるいはフランスのマレ(Marest)が1830年に育種・公表したとされています。マレー、1830年説が一般的です。
交配親は不明です。

マレが運営する園芸店はルクサンブール公園にほど近い場所にあったようです。園芸店を運営かたがたバラの育種も行っていたのかもしれません。このマダム・ゾートマンのほか、あまり流通はしていませんが、ピンクのHPコンテス・セシル・ド・シャブリラン(Comtesse Cécile de Chabrillant)、ピンク・アプリコットのティーローズ、スヴェニール・デリーズ・ヴァルドン(Souvenir d’Elise Vardon)などを育種したことでも知られています。

マダム・ゾートマンはダマスクにクラス分けされていますが、グラハム・トーマスの他、多くの研究者が葉や樹形の様子からガリカとの類似を指摘しています。確かに、樹形はガリカそのものです。数少ない白花のガリカなのかもしれません。あるいは、ダマスクのマダム・アルディとガリカとの交配により生み出されたのかもしれません。
命名の由来はつまびらかではありませんが、育種者がR.S. ゾートマン( R. S. Soetemans)であるなら、夫人にちなんで命名されたのだろうと思います。

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ベラ・ドンナ(Bella Donna)https://ggrosarian.com/2024/12/16/%e3%83%99%e3%83%a9%e3%83%bb%e3%83%89%e3%83%b3%e3%83%8a%ef%bc%88bella-donna%ef%bc%89/Mon, 16 Dec 2024 03:13:53 +0000https://ggrosarian.com/?p=2157

7㎝から9㎝径、ライトピンク、よく整ったロゼッタ咲き、またはダリアのような花弁が密集する丸弁咲きとなります。美しい灰緑のつや消し葉の中型のシュラブ。1840年ころから市場へ出回っていることから、そのころ育種されたと思われ ... ]]>

どんなバラ?

7㎝から9㎝径、ライトピンク、よく整ったロゼッタ咲き、またはダリアのような花弁が密集する丸弁咲きとなります。
美しい灰緑のつや消し葉の中型のシュラブ。1840年ころから市場へ出回っていることから、そのころ育種されたと思われますが、どこで、だれが、どんな交配親を使ってといった詳細はわかっていません。

品種名の由来

ベラ・ドンナは”美しい女(伊語)”という意味ですが、ヨーロッパの湿地に自生するナス科の毒草の名前でもあります。

“ベラ・ドンナの果実(fruits of Atropa belladonna)” Photo/Krzysztof Ziarnek, Kenraiz [CC BY SA-4.0 via Wikimedia Commons]

黒い果実、葉や根に含まれるヒヨスシアミン(Hyoscyamine)は猛毒とのことですが、局所麻酔、中枢神経興奮作用のある薬剤としても利用され、服用すると瞳孔を拡大させる効能があることから眼科の治療にも用いられるとのことです。大きな瞳で妖艶な美しさをふりまき、男たちを魅了する悪女といったところでしょうか。

同じ品種名、別のバラ

“妖しい”、したがって”魅惑的な”名前のためでしょうか、同名・異種のバラがいくつかあり、それほどポピュラーではありませんが、流通しています。

  1. 中輪、白花のチャイナローズまたは花が大きいのでティーローズとされることも。1828年以前、イタリアのジオヴァンニ・カサレッティ(Giovanni Casoretti )が育種・公表
  2. 大輪、白花のケンティフォリア、1593年ころには知られていた。育種者は不明
  3. 中・大輪、モーヴ(藤色)、ロゼッタ咲きのシュラブ、2010年、日本の岩下篤也氏作出、”アンダー・ザ・ローズ”シリーズの一品種
  4. 大輪・パープリッシュな深紅となるHT、2023年、スイスのリハルト・フーバー(Richard Huber)が育種・公表
  5. アルバの基本的な品種であるメイドンズ・ブラッシュ(Maiden’s Blush)は、ベラ・ドンナという別名で呼ばれることもあります

 

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デュク・ド・ケンブリッジ(Duc de Cambridge)https://ggrosarian.com/2024/12/13/%e3%83%87%e3%83%a5%e3%82%af%e3%83%bb%e3%83%89%e3%83%bb%e3%82%b1%e3%83%b3%e3%83%96%e3%83%aa%e3%83%83%e3%82%b8%ef%bc%88duc-de-cambridge%ef%bc%89/Fri, 13 Dec 2024 01:08:06 +0000https://ggrosarian.com/?p=2152

9㎝から11㎝径、花弁が折り重なったように整形するロゼッタ咲き。花色はパープルな色合いを含んだストロング・ピンク。モーヴ(藤色)と表示されることもあります。花弁縁が白く色抜けすることも。強い香り。卵型のかたち良いつや消し ... ]]>

どんなバラ?

9㎝から11㎝径、花弁が折り重なったように整形するロゼッタ咲き。花色はパープルな色合いを含んだストロング・ピンク。モーヴ(藤色)と表示されることもあります。花弁縁が白く色抜けすることも。
強い香り。
卵型のかたち良いつや消し葉、細めの枝ぶり、180㎝から250㎝高さを超える大きなシュラブとなります。

育種された経緯についての二つの説

交配親の詳細ははっきりしていませんが育種の由来には二つの説があります。

ひとつは、ハイブリッド・パーペチュアル(HP)の生みの親、フランスのジャン・ラッフェイが作出・公表したというもの。イギリスのバラ研究家トーマス・リバースが1840年版の著作のなかでこの品種に言及していることから1840年以前には市場へ提供されていたと解釈されています。(”Rose Amateur’s Guide”,1837, Thomas Rivers)

もうひとつは、1857年、マルゴッタン父(Jacques-Julien Margottin-père)がHPのマダム・フレミオン(Mme. Fremion)の実生種として市場へ出したとするものです。

1840年ころ、ラッフェイはHPの育種に専心していたことが知られています。また、マルゴッタン父もHPの育種に熱心でした。このデュク・ド・ケンブリッジは春一季咲きですので、HPにクラス分けされることはなく、ダマスクにされるのが適切だと思いますが、花形はHPに近いので、 “一季咲きのHP”と表現するのが一番イメージが合うような気がします。

品種名の由来

英国王ジョージ3世の7男、ケンブリッジ公、アドルファス・フレデリック(Adolphus Frederick, Duke of Cambridge、1774-1850)にささげられました。

“Prince Adolphus Frederick, Duke of Cambridge” Painting/ William Beechey [Public Domain via Wikimedia Commons]

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フェリシテ・エ・ペルペチュ(Félicité et Perpétue)https://ggrosarian.com/2024/12/12/%e3%83%95%e3%82%a7%e3%83%aa%e3%82%b7%e3%83%86%e3%83%bb%e3%82%a8%e3%83%bb%e3%83%9a%e3%83%ab%e3%83%9a%e3%83%81%e3%83%a5%ef%bc%88felicite-et-perpetue%ef%bc%89/Thu, 12 Dec 2024 02:13:06 +0000https://ggrosarian.com/?p=2143

3cm径ほどの、小さな、多弁・ポンポン咲きの花が、ひしめくような房咲きとなります。ピンクに色づいていたつぼみは開花すると淡いピンクが入ることがありますが、次第に純白へと変化します。香りはわずか。まるみのある、深い葉色。細 ... ]]>

どんなバラ?

3cm径ほどの、小さな、多弁・ポンポン咲きの花が、ひしめくような房咲きとなります。
ピンクに色づいていたつぼみは開花すると淡いピンクが入ることがありますが、次第に純白へと変化します。
香りはわずか。
まるみのある、深い葉色。細く、柔らかな枝ぶり。450cmから600cm高さまで枝を伸ばす、ランブラーです。
大きめのフェンス、アーチ、パーゴラなどへ誘引すると、柔らかな枝ぶりの樹形を楽しむことができます。耐病性に優れ、多少の日陰にも耐え、花を咲かせます。棘も少なく、取り扱いが容易です。
温暖地域では葉をつけたまま冬季を越すことができるほどの強健種ですが、逆に冷涼地域での生育にはむずかしい面があるようです。

育種の経緯と枝変わり種

1827年、フランスのジャック(Antoine A. Jacques) が育種・公表しました。北アフリカからヨーロッパ南部に自生し、落葉しないこともあることからエバーグリーン・ローズと呼ばれることもある原種ロサ・センペルヴィレンスと品種名不明のノワゼットとの交配により生み出されたと言われています。
この品種の枝変わりにより矮性のポリアンサが生じ今日まで人気を保っています。リトル・ホワイト・ペット(Littel White Pet)です。花形、花色などはそっくり、樹形だけがランブラーからポリアンサに変化し、返り咲き性もあります。

品種名の由来

あまり例のない品種名について、ふたつの説があります。

育成者ジャックは、生まれてくる子供にちなんでこのバラに命名しようとしていましたが、双子の娘が生まれたため、ふたりの娘の名、Félicitéと Perpétueを並べて命名したという説(J.H. Nicolas”A Rose Odyssey”)というのがひとつ。
キリスト教の教えを守って殉教した聖人、聖フェィチタス(St. Felicitasu)と聖ペルペトゥア(St. Perpetua)にちなんで命名されたというのが二つめの説です。

聖フェィチタス(St. Felicitasu)と聖ペルペトゥア(St. Perpetua)

『聖ペルペトゥアと聖フェリシティの受難(Passion of Saints Perpetua and Felicity )』という日記(キリスト教テキスト)が今日まで伝えられています。
紀元203年、キリスト教が禁止され迫害されていたローマ帝国治世下、カルタゴで囚われ棄教を迫られたものの肯ぜず、殉教した女性ペルペトゥアが残したもので、彼女の殉教後、編集されて今日まで伝えられました。

Sacra Conversazione Mary with the Child, St Felicity of Carthage and St Perpetua
‘Sacra Conversazione Mary with the Child, St Felicity of Carthage and St Perpetua (中央は聖母マリア、左が聖フェィチタス、右が聖ペルペトゥア)’ Painting/anonymous [Public Domain via Wikimedia Commons]

ペルペトゥアが日記を残せたのは、彼女が看守に賄賂を贈ることができる裕福な家族のひとりであったからのようです。一方、フェィチタスは女性の奴隷で、他の奴隷と同じ時期に処刑されるはずであったところ、妊娠していたため繰り延べされていたと記載されています。

テキストは次のように語ります。

奴隷のフェリキタスは、妊娠中の女性の処刑は法律で禁じられていたため、他の者たちと一緒に殉教することは許されないのではないかと当初は心配していたが、娘を出産し殉教することになった。
当日、殉教者たちは円形劇場に連れて行かれ、群衆の要求により、彼らはまず一列に並んだ剣闘士たちの前で鞭打たれ、次に猪、熊、豹が男たちに、野牛が女たちに突きつけられ。野獣に傷つけられた彼らは、互いに平和のくちづけを交わし、その後剣で殺された。
ペルペトゥアの死について次のように説明されている。
ペルペトゥアは、痛みを味わうために骨の間に突き刺され、悲鳴をあげた。そして剣士の手が動かなくなると(彼は初心者だった)、自らその手を自分の首に当てた。(Wikipedia, 2023-12-12閲覧)

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ふたりのフェリシテ(Félicité)https://ggrosarian.com/2024/12/11/%e3%81%b5%e3%81%9f%e3%82%8a%e3%81%ae%e3%83%95%e3%82%a7%e3%83%aa%e3%82%b7%e3%83%86%ef%bc%88felicite%ef%bc%89/Wed, 11 Dec 2024 03:09:00 +0000https://ggrosarian.com/?p=2108
フェリシテ・マルメンティエ(Felicite Parmentier)
フェリシテ・マルメンティエ(Félicité Parmentier)
マダム・アルディ(Mme. Hardy)
マダム・アルディ(Mme. Hardy)

フェリシテ・パルメンティエとフェリシテ・アルディ

最近、ダマスクの名品種マダム・アルディのことを調べなおしたのですが、育種者アルディの夫人にささげられたこの品種は”フェリシテ・アルディ(Félicité Hardy)”と呼ばれることもあることを知りました。フェリシテはアルディ夫人のファースト・ネームだということでした。

それで、アルバの名品種である”フェリシテ・パルメンティエ”について、”フェリシテ”という女性に捧げられたのではないかと思うようになりました。
“Félicité”は”喜び”、”栄光”など栄えある気持ちを表す言葉です。実は”フェリシテ・パルメンティエ”という品種名は”パルメンティエ家の栄光”の意味だろうとずっと思っていたのです。

これは間違いだったのかもしれないと思い至りました。パルメンティエ一族のなかにフェリシテという女性がいて、それは育種者パルメンティエの夫人であったのかもしれないということです。
そこで、HelpmeFindやWikipediaなどを手掛かりにあれこれとチェックしてみたのですが、”フェリシテ”が女性の名前であったのか、単に”栄光”の意味であったのかを見極めることはできませんでした。

やはり”フェリシテ・パルメンティエ”は女性のことなのか

センペルヴィレンス系に”フェリシテ・エ・ペルペチュ”という品種があります。

フェリシテ・エ・ペルペチュ(Félicité et Perpétue)
フェリシテ・エ・ペルペチュ(Félicité et Perpétue)

センペルヴィレンス系の名品種として知られるこの品種も、おそらくはふたりの聖人、フェリシテとペルペチュにちなんで命名されたのだろうと思います。

情けないことに、このことに気づくのに何十年ももかかってしまったということかと思います。マーマミア!

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ヘーベズ・リップ(Hebe’s Lip)https://ggrosarian.com/2024/12/11/%e3%83%98%e3%83%bc%e3%83%99%e3%82%ba%e3%83%bb%e3%83%aa%e3%83%83%e3%83%97%ef%bc%88hebes-lip%ef%bc%89/Wed, 11 Dec 2024 02:26:30 +0000https://ggrosarian.com/?p=2120

11cmから13cm径、セミ・ダブル、平咲きの花形。鮮やかなレッドで色づいていたつぼみは、開花すると全体はホワイト、花弁の縁に濃い赤がでる覆輪花となりますが、赤が残らず、全体が純白となることもあります。強い香り。幅広の、 ... ]]>

どんなバラ?

11cmから13cm径、セミ・ダブル、平咲きの花形。
鮮やかなレッドで色づいていたつぼみは、開花すると全体はホワイト、花弁の縁に濃い赤がでる覆輪花となりますが、赤が残らず、全体が純白となることもあります。
強い香り。
幅広の、明るい色合、表皮がザラリとした縮み気味となるつや消し葉、小さなトゲが密生する枝ぶり、120cmから180cm高さのシュラブとなります。

育種者、市場へ出回るようになった経緯

1829年以前、英国のジェームズ・リー(James Lee)が育種・公表したと言われています。
その後流通が途絶えていましたが、1912年になって、英国の著名な園芸家ウィリアム・ポール(William Paul)が改めて市場へ紹介したと言われています。

ジェームズ・リーはブドウ栽培農場(Lee and Kennedy’s Vineyard)を共同経営後、1818年頃からバラ育種を行うようになりました。
この農場からはセンペルヴィレンス系の名品種、スタンウェル・パーペチュアル(Stanwell Perpetual)が生み出されています。

交配親は不明ですが、ロサ・ダマスケナ(R. damascena;”サマー・ダマスク”)とロサ・エグランテリア(R. eglanteria)との交配により生み出されたというのが一般的な理解です。
花はダマスクに香り、葉はエグランティンに特有なリンゴのように香るという解説もありますが、ちょっと眉唾ものかと感じています。

ダマスクローズのひとつとされることが多く、ここでもその解釈に従っていますが、全体的な印象としてはダマスクという感じがしません。英国のピーター・ビールズは著書『クラシック・ローゼズ(Classic Roses)』のなかで、ロサ・ルギニノサ・ハイブリッド(”エグランティン交配種”)とするのがよいと解説していますが、そのほうが適切かもしれません。

“ロサ・ルビギノサ(R. rubiginosa)”

品種名の由来

ヘーベはギリシャ神話に登場する女神です。主神ゼウスとヘーラーの娘で青春を神格化した女神と言われ、オリンポスの神々の間で、不死をもたらす飲み物、ネクターを注いでまわる役目をしています。
水瓶の口を”Lip”と呼ぶことがあるとのこと。品種名はこの”水瓶”にちなんだものと思っていますが、確信はもてていません。

ヘーベ(Hebe)
‘Hebe’ Painting/Christian Griepenkerl [Public Domain via Wikimedia Commons]

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マダム・アルディ(Mme. Hardy)https://ggrosarian.com/2024/12/10/%e3%83%9e%e3%83%80%e3%83%a0%e3%83%bb%e3%82%a2%e3%83%ab%e3%83%87%e3%82%a3%ef%bc%88mme-hardy%ef%bc%89/Tue, 10 Dec 2024 01:23:25 +0000https://ggrosarian.com/?p=2096

長い苞葉につつまれたつぼみは意図的に飾りつけたかのようです。開花した花は9cmから11cm径、浅いカップ型、ロゼッタ咲きまたはクォーター咲きとなります。花芯には緑芽が生じます。オールドローズとして、”もっとも完璧に近い” ... ]]>

どんなバラ?

長い苞葉につつまれたつぼみは意図的に飾りつけたかのようです。開花した花は9cmから11cm径、浅いカップ型、ロゼッタ咲きまたはクォーター咲きとなります。花芯には緑芽が生じます。オールドローズとして、”もっとも完璧に近い”としばしば語られる美しさです。
花色は白。ときに刷いたように薄ピンクがはいることがありますが、これはつぼみのときに出ていたピンクが開花しても残ったためと思われます。
甘く、強く香り。
縁にのこ目が強く出る、明るい、グレーがかったつや消し葉。120cmから180cmほどの立ち性のシュラブ。枝は細めに伸びてゆきますので、トレリスに誘引したり、オベリスク仕立てとする必要があります。

マダム・アルディの蕾(Mme. Hardy's bud)
マダム・アルディの蕾(Mme. Hardy’s bud)Photo/Rudolf [CC BY SA-3.0 via Rose-Biblio]

品種名の由来など

1832年、フランス、パリのルクサンブール宮の庭丁であったJ-A ・アルディ(Julien-Alexandre Hardy)により育種・公表されました。交配親は不明ですが、花形の美しさは、ケンティフォリアからもたらされたのではないか、いや、花持ちのよさはガリカの影響が感じられると、さまざまに語られています。
凛として他を圧する気品あふれる白い花。甘くなごむ香り。たまご型の優美な葉。なにひとつ欠点のない“完璧”なバラであると、多くの研究家や愛好家に評されています。
育成者アルディの夫人に捧げました。育種公開当初はフェリシテ・アルディ(Félicité Hardy)と呼ばれたようですが、やがて、”マダム・アルディ”が品種名として定着するようになりました。

育種家や研究家たちが寄せる賞賛

オールドローズの頂点にあると言ってもけして過言ではない、美しい品種です。多くのバラ研究家が惜しみない賛辞を送っています。いくつかご紹介しましょう。 しかし、下でも参照した「いまだ、どんなバラにも凌駕されていない…」(”Graham Stuart Thomas Rose Book”)という言葉がすべてを物語っているのかもしれません。

このバラは、葉に繊毛がないので純粋なダマスクとは言えないが、ふさふさとした樹形、よく整った花は、白バラの中では一番にあげるべきもので、これほど卓絶したバラはない。(”The Rose Amateur’s Guide”, Thomas Rivers)

大きなヒップ(結実)を生み、丸い白花。ブール・ド・ネージュは純粋な白花の八重咲きで…数年前まで、これを超えるものはないと考えられていたが、その予想はみごとに裏切られ、現在ではマダム・アルディが勝利を収めている…(”The Rose Manual “, Robert Buist)


古い白バラの中でも最も美しい品種のひとつだ。純粋なダマスクではなく、(おそらく)その美しさと華やかさの一部はケンティフォリアに由来していると考えられる。房咲きとなる性質はダマスク由来を思わせるが、完璧と言える花形は(他には)ガリカ・ローズの一部にしか見出すことができない。
いまだ、どんなバラにも凌駕されていない。(”Graham Stuart Thomas Rose Book”, Graham S. Thomas)

あるダマスクローズの実生から生み出された。1831年にはじめて開花し、育種者の妻の名前(フェリシテ)がつけられ、1832年に公表された…
1991 年の世界バラ連盟の会合では、史上最も人気のあるバラのトップ 10 のひとつに選ばれた。香りのよい花で、古い庭のバラの中で最も白いとよく言われるが、花芯には時に肌色のようなピンクを帯びることがある。(”Climbing Roses” , Scanniello & Bayard)

”マダム・アルディ”は、美しい形の花がきれいな緑色の目によって引き立てられた、見事な白いバラだ。かつては”嫉妬深い緑の目と表現されたが…これは、緑芽のできない、”マダム・ゾートマン”を羨んでいるためと言われた。
しかし、このように表現した著者は…マダム・ゾートマンにも緑芽ができるのを知らなかったのだと思われる…(”Rose-Biblio”, 2024.12.10閲覧)

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アメリア(Amélia)https://ggrosarian.com/2024/12/07/%e3%82%a2%e3%83%a1%e3%83%aa%e3%82%a2%ef%bc%88amelia%ef%bc%89/Sat, 07 Dec 2024 01:59:38 +0000https://ggrosarian.com/?p=2092

7cmから9cm径、セミ・ダブル、オープン・カップ形の花が数輪単位の”連れ”咲きとなります。花色は明るく淡いけれども華やかな印象のミディアム・ピンク、中心部にイエローの雄しべが見えコントラストが美しい品種です。爽やかな強 ... ]]>

どんなバラ?

7cmから9cm径、セミ・ダブル、オープン・カップ形の花が数輪単位の”連れ”咲きとなります。
花色は明るく淡いけれども華やかな印象のミディアム・ピンク、中心部にイエローの雄しべが見えコントラストが美しい品種です。
爽やかな強い香り。
縁の鋸目が強い、蒼みをおびた幅広のつや消し葉、細いけれど固めの枝ぶり、120cmから180cm高さの立ち性のシュラブとなります。

育種年、育種者など

1823年、フランスのヴィベール(Jean-Pierre Vibert)により育種・公表されました。交配親などの詳細は不明のままですが、この品種にもいくぶんかダマスクの血が入っているとみなされ、ダマスクにクラス分けされることもあるようです。
寒冷な気候、日照不足にもよく耐える強健種です。

そっくり品種セルシアーナとの違い

ダマスクにクラス分けされているセルシアーナ(Celsiana)と花色、花形がよく似ているため、間違われることもあります。市場に出回っている、もともとは別品種であったセルシアーナとアメリアは長い年月の間に混同されてしまい、現在では同じものなのかもしれません。イタリアのウド・クローチェ(Udo Croce)は、「似ているけれど…」と前置きのうえ、次のように述べています。

アメリアとセルシアーナは似ているように見えるが、アルバ交配種であるアメリアは、より(鋭い)トゲがあり、(セルシアナのように激しく変化するわけではない安定した)花色と(花の)大きさによって区別される。
アメリアのつぼみは典型的なダマスクの形をしておらず、より丸い。萼片はあまり伸びず、花序はあまり尖っていない。
花は非常に香りが良く、よく色を保ち、セルシアナよりも色濃く。(小葉の)先端にはアルバの特徴である強めに出る鋸歯がある。


2002年にデンマークのポールセン農場が公表したコーラル・カラーのシュラブに同名の品種がありますので、注意が必要です。

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レダ(Leda)https://ggrosarian.com/2024/12/06/%e3%83%ac%e3%83%80%ef%bc%88leda%ef%bc%89/Fri, 06 Dec 2024 02:58:34 +0000https://ggrosarian.com/?p=2073

7cmから9cm径、25弁ほどの丸弁咲きの花形となります。開き始めのつぼみの先端に鮮やかな紅が出ます。花が開くと、花弁は純白、つぼみの時の紅は縁に残り、深紅に縁取りされた白いバラとなります。筆で彩りを添えたように見えるこ ... ]]>

どんなバラ

7cmから9cm径、25弁ほどの丸弁咲きの花形となります。
開き始めのつぼみの先端に鮮やかな紅が出ます。花が開くと、花弁は純白、つぼみの時の紅は縁に残り、深紅に縁取りされた白いバラとなります。
筆で彩りを添えたように見えることからペインテッド・ダマスク(Painted Damask)と呼ばれることもあります。
強くはありませんが、甘い香り。(中香)
深い葉緑、細く鋭い小さなトゲが密生する枝ぶり、120cmから180cmほどのシュラブとなります。

よく似た品種

現在、ピンク・レダと呼ばれているダマスクが古い時代から、おもにフランス内で流通していました。花全体がミディアム・ピンクとなりますが、花色は一定せず、大きな班模様が出るといった印象を受ける品種です。
レダからの枝変わりがピンク・レダ、いやその逆だピンク・レダが元品種でレダになったと、研究者の間でも意見が異なり、定説はありません。

ピンク・レダ(Pink Leda)
‘Pink Leda’ Photo/Krzysztof Ziarnek, Kenraiz [CC BY SA-4.0 via Wikimedia Commons]

品種名の由来

この美しいダマスク・ローズはギリシャ神話に由来しています。神話は話が話を生み、うねりとなって続いてゆきます。簡単にたどってみましょう。

ゼウスとレダ

主神ゼウスは、スパルタ王ティンダリオスの王妃であった美しいレダに横恋慕します。レダは夫ある身、その度にゼウスの思いを拒絶します。

しかし、ゼウスはあきらめませんでした。鷲に追われて傷を負った白鳥に化けてレダの哀れみを誘い、そして終に思いを果たします。

レダと白鳥(Leda and the Swan)
‘Leda and the Swan’ Painting/Giambettino Cignaroli [Public Domain via Wikimedia Commons]

この密通により、レダはふたつの卵を産み、ひとつの卵からはクリュタイムネストラとヘレナという女の子が、もうひとつからは、カストルとポルックスという男の子と、それぞれ双子が生まれました。

パリスの審判

ヘレナは長じて絶世の美女となり、多くの男が妻に迎えようとして争うこととなりましたが、求婚者らが集って話し合い、ギリシャ諸都市を総帥するミュケナイ王アガメムノンの弟、スパルタ王メネラオスが夫となることが決定されました。しかし、神話は海原のうねりのようにさらに大きく展開してゆきます。

黄金の林檎を巡って主神ゼウスの妻ヘラ、智謀の女神アテネ、そして愛の女神アフロディテ(ビーナス)が争ったとき、主神ゼウスはそれをトロイア王プリアモスの息子パリスがいちばん美しいと判じた女神のものとするという裁定を下しました。

ヘラは王国を、アテネは戦いにおける勝利を、そして、アフロディテは人間のなかでもっとも美しい女を与えるという約束をして裁定者パリスを誘惑します。

‘The Judgment of Paris’ Painting/Lucas Cranach the Elder [Public Domain via Wikimedia Commons]

パリスが選んだ一番美しい女神は、アフロディテでした。パリスは約束通り、人間のなかで最も美しい女を娶ることができるという褒美を得ることとなりました。人間のなかで最も美しい女ヘレナがすでにアガメムオンの弟、メネラオスの妻となっていたことは前に触れたとおりです。しかし、パリスはアフロディテの助けによってヘレナを誘惑し、故郷トロイへ逃げ帰ってしまいます。これが、ギリシャ、トロイ間の戦争(トロイ戦争)の発端となりました。

トロイ戦争

トロイ戦争では英雄アキレウスや、アキレウスと戦って非業の死を遂げるパリスの兄へクトールなどが活躍します。この顛末は、ホメロスの叙事詩『イーリアス』で雄々しく語られています。城壁をはさんで長く続いた戦闘は、「木馬の計略」によりギリシャ軍の勝利となることはご存知のとおりです。

the Trojan Horse in Troy‘ Painting/Giovanni Domenico Tiepolo [Public Domain via Wikimedia Commons]

『イーリアス』が語る物語は英雄アキレウスの葬儀をもって終わります。

『オデッセイア』はホメロス作、『イーリアス』の続編にあたります。トロイ戦争に勝利した英雄オデッセイは故国イタケ―を目指しますが、帰途、息子ポリュペーモスを傷つけたことで海神ポセイドンの恨みを買い、そのため数々の妨害にあい帰郷を果たすまで十年の歳月を要することになるという叙事詩です。

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マリー・ルィーズ(Marie Louise)https://ggrosarian.com/2024/12/05/%e3%83%9e%e3%83%aa%e3%83%bc%e3%83%bb%e3%83%ab%e3%82%a3%e3%83%bc%e3%82%ba%ef%bc%88marie-louise%ef%bc%89/Thu, 05 Dec 2024 02:59:17 +0000https://ggrosarian.com/?p=2062

7cmから9cm径ほどの、中輪、ロゼッタ咲きの花となります。花色は少しくすみ(灰)の入った深みのあるピンク。春のみの開花、一季咲きです。いくぶんか大きめ、幅狭のつや消し葉。細いけれども固めの枝ぶり。90から120cm高さ ... ]]>

どんなバラ?

7cmから9cm径ほどの、中輪、ロゼッタ咲きの花となります。
花色は少しくすみ(灰)の入った深みのあるピンク。
春のみの開花、一季咲きです。
いくぶんか大きめ、幅狭のつや消し葉。細いけれども固めの枝ぶり。90から120cm高さの立ち性のシュラブとなります。

市場へ紹介されたいきさつ

この品種は現在ではオーストリアの公女でナポレオン・ボナパルトの2番目の妻となったマリー・ルイーズ(Marie Louise of Austria)と呼ばれるのが一般的ですが、実際には、だれがいつ育種し、市場へ提供したのか、その時の品種名は何であったのか、いずれも不明のままです。

それ故、熱心なバラ研究家が考察を重ねていますが、ダレル・スクラム氏(Darrell g.h. Schramm)による”200 Years and Counting: Marie Louise”(Rose Letter 2013)がよくまとまっているので、そのサマリーをご紹介します。

このバラの誕生年は、1813 年とされることが多いですが、この日付は、1829 年のバラのカタログでプレヴォストが「Marie Louise」を 1813 年にマルメゾンで受け取ったと述べていることに基づいているようです。ただし、「受け取った」は「育てた」または「紹介した」という意味ではありません…
Graham Stuart Thomas は誕生年を 1811 年としています…
1954年にロイ・E・シェパードは彼の古典的な著作の中で、このバラは1800年より前に初めて登場したと主張しました…
ガリカの権威であるフランソワ・ジョワイオは、「マリー・ルイーズ」は淡い淡いピンクのガリカである「アガサ・インカルナータ」と同じであると考えています…


小、中輪の花が多い、オールド・ガーデン・ローズの中にあって、比較的大きな花形となる美しい品種として知られています。ア・フルール・ギガンテスク(A Fleurs Gigantesques;巨大花)と呼ばれることもあるほどです。
ダマスク・ローズの頂点にあるといってよい優れた品種(”Graham Stuart Thomas Rose Book”)ですが、花色や花形からジョワイヨ教授のようにガリカの一品種とされることもあります。

品種名の由来

この品種は、ジョセフィーヌがマルメゾン館の庭園に集めたバラ品種のひとつだと言われています。育種当時はベル・フラマンド(Belle Flamande)など別名称だったようですが、時代が下がるにつれマリー・ルイーズという品種名がもっとも一般的なものになりました。
この命名はとてもアイロニカルだと感じています。つぎのような事があったからです。

マリー・ルィーズ/Marie Louise(1791-1847)は、ナポレオン1世がジョセフィーヌと離婚した後、皇妃として迎えたオーストリア皇帝フランツ1世の娘、ハプスブルグ家の王女です。フランス革命の渦中でギロチン刑に架せられたマリー・アントワネットは大叔母にあたります。

マリー・ルィーズ(Marie-Louise of Astria, Empress of French)
‘Marie-Louise of Austria, Empress of French’ Painting/unknown [Public Domain via Wikimedia Commons]

オーストリーはナポレオン率いるフランス軍に何度も蹂躙され、マリーはナポレオンを忌み嫌っていました。
ジョゼフィーヌとの間に子ができないため、自分の生殖能力には欠陥があるのでないかと悩んでいたナポレオン(ジョゼフィーヌには前夫との間に2子があった)ですが、愛人との間に私生児が誕生したことにより、名家の娘との間に子を設けて皇帝たる自分の子孫を残したいと思うようになりました。
そこでナポレオンは、高貴とは言えない家系のジョゼフィーヌを離縁し、ハプスブルグ家の公女マリー・ルイーズと婚儀をむすぶことにしました。この結婚は敵対するハプスブルグ家との間のものでしたので、政略結婚そのものでした。

婚儀が定められたときマリーは泣き暮らしたと伝えられています。しかし、結婚直後は、ナポレオンがマリーに穏やかに接したことから、フランスでの生活は平穏であり、嫡子ナポレオン2世にも恵まれました。
時が流れるにつれ、無敵のナポレオンもロシア遠征(1812年)で致命的な敗北を喫するなどして敵対する同盟軍に追われるようになり退位を余技なくされます。マリーはナポレオンがエルバ島へ流刑(1814年)となった後はウィーンへ戻り、ナイベルグ伯と密通して娘を産むなどナポレオンとは疎遠になってしまいました。

1815年、ナポレオンがエルベ島を脱出しパリへ向かっているという知らせを聞いたときには仰天して、
「またヨーロッパの平和が危険にさらされる」と言ったと伝えられています。(”Wikipedia”など、2024-12-03閲覧)
政略結婚であったにせよ、また、密通などにはかなり寛容な当時の時代風潮があったにせよ、”英雄”ナポレオンン・ボナパルトの”不実”な妻という悪名を後々まで残すことになってしまったのはある意味では気の毒なことだと言えるかもしれません。

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セルシアナ(Celsiana)https://ggrosarian.com/2024/12/04/%e3%82%bb%e3%83%ab%e3%82%b7%e3%82%a2%e3%83%8a%ef%bc%88celsiana%ef%bc%89/Tue, 03 Dec 2024 23:00:00 +0000https://ggrosarian.com/?p=2052

7cmから9cm径、セミ・ダブル、平咲きの花が房咲きとなります。開花直後のライト・ピンクであった花色は次第に色褪せ、白に近くなります。春一季咲きですが、開花の期間が長く、長い期間楽しみを与えてくれます。鮮烈なダマスクの香 ... ]]>

どんなバラ?

7cmから9cm径、セミ・ダブル、平咲きの花が房咲きとなります。
開花直後のライト・ピンクであった花色は次第に色褪せ、白に近くなります。
春一季咲きですが、開花の期間が長く、長い期間楽しみを与えてくれます。
鮮烈なダマスクの香りがします。(強香)
楕円形で、葉先がピンと尖った形よいつや消し葉、細いけれど固めの枝ぶり、120cmから180cm高さのシュラブとなります。

多花性で開花期間が長いこと、さらに花色の変化を楽しむことができるため、古くから多くの人に愛されてきました。

品種名の由来など

非常に古い時代、1750年以前にオランダで育種されたとみられていますが、フランスのセル兄弟社が、園芸研究家であったジャックーマルタン・セル(Jacques-Martin Cels)にちなんでセルのバラ(Celsiana)と命名して市場へ提供したことから、この品種名が一般的となりました。


とりわけ多花性で知られていることから、アボンダンテ(Abondante;”数多い”)と呼ばれることも。また、ベル・クロネ(Belle Couronnée;”王冠の美女”)と呼ばれることもあるようです。
耐寒性、耐病性ともにすぐれ、多くのバラ愛好家にダマスクの美点をすべて備えたすぐれた品種と評されています。その評価に違わない、美しいバラです。

ルドウテが残したボタニカル・アート

”バラの画家”と呼ばれるルドウテ(Pierre-Joseph Redouté)がこの品種の水彩画を残しています。花色の違いは、開花当初の濃いめから熟成したときの薄目の花色への移ろいを表現しているものと思われます。

’Rosa Damascena Celsiana’ watercolor/Pierre-Joseph Redouté [CC BY SA-3.0 via Wikimedia Commons]

別のクラスの”そっくりさん”

開花時には、アルバに品種分けされているアメリア(Amelia)とよく似ているため混同されることもあるので注意が必要です。

アメリア(Amelia)
アメリア(Amelia)

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19世紀後半を彩る3人の美しい皇妃、王妃https://ggrosarian.com/2024/12/03/19%e4%b8%96%e7%b4%80%e5%be%8c%e5%8d%8a%e3%82%92%e5%bd%a9%e3%82%8b3%e4%ba%ba%e3%81%ae%e7%be%8e%e3%81%97%e3%81%84%e7%9a%87%e5%a6%83%e3%80%81%e7%8e%8b%e5%a6%83/Tue, 03 Dec 2024 03:09:03 +0000https://ggrosarian.com/?p=199719世紀後半のヨーロッパ

19世紀後半、英国、フランス、プロイセン、オーストリー=ハンガリーなどのヨーロッパ列強は、領有地や植民地をめぐり、ときに協力し、ときに武力衝突に至るなど、利権を争って激しく競い合っていました。

文化的にはベル・エポック(Belle Époque:“美しい時代”)と呼ばれた時代の入り口にあたります。

英国はヴィクトリア朝と呼ばれる絶頂期を迎えていました。
フランスはナポレオン時代終焉後の混乱が収まらず、王党派、ボナパルト(ナポレオン)派、共和政派などが激しく争い、王政、共和政と目まぐるしく政体が変転していました。
また、ドイツの主要王国であるプロイセンは群雄小国を統一して大ドイツの長となることをもくろみ、オーストリー=ハンガリー帝国も出遅れた植民地獲得競争に歯ぎしりしているといった状況でした。

19世紀後半の貴婦人たち

19世紀後半の王侯貴族社会。美、善良さ、そして貞淑であることが婦人の美徳であるとされていました。王侯貴族など貴婦人たちは、腰をコルセットで締め上げ、きらびやかに着飾り、美を競い合っていました。

Fashion plate costumes and accessories for 1839
Fashion plate costumes and accessories for 1839 Illustration/unknown [Public Domain via Wikimedia Commons]

一方で、この19世紀後半の時代は、英国に端を発する産業革命の波がひたひたと寄せてくる時代でもありました。富が偏在し格差が拡大するなか、社会階層の変革のきざしが見え始めていました。

インテリジェントな女性たちは時代の流れのなかで、雇用や教育の機会の不均衡、婦人に参政権が認められていないなどの不平等に抗して声をあげ、権利の主張するようにもなりました。

こんな時代でしたが、18世紀末から19世紀前半にかけての、皇妃や王妃など高貴な婦人たちが集うサロンは19世紀後半になっても変わらずに続いていました。

エリザベート・フォン・エスターライヒ(Elisabeth von Österreich:1837-1898)

1853年8月18日、若きオーストリア皇帝にしてハンガリー国王、ハプスブルグ家のフランツ・ヨーゼフ1世(Franz Joseph Karl von Habsburg-Lothringen)は皇妃候補のひとり、バイエルン公家の公女ヘレーネ・カロリーネ・テレーゼ(Helene Caroline Therese)と見合いをしました。ヘレーネには妹エリザベートがいて、妹は皇帝と姉の見合いの席に同席していました。

フランツ・ヨーゼフ1世は、当の皇妃候補ヘレーネではなく、同席していたエリザベートに魅了されてしまいます。皇妃候補であったヘレーネを差し置き、エリザベートに夢中になってしまいました。

'Empress Elisabeth of Austria' ,1860
‘Empress Elisabeth of Austria’ Painting/Franz Schrotzberg, 1860 [Public Domain via Wikimedia Commons]

フランツの母后ゾフィーは思わぬ事態の展開に困惑してしまいますが、常日頃は母に従順であったフランツはこの時ばかりはエリザベートを皇妃にと譲らず、翌1854年4月ふたりは結婚しました。フランツ23歳、エリザベート16歳でした。

エリザベートの美貌はまたたくまにヨーロッパ中に知れ渡りました。しかし、父マキシミリアン公ゆずりであったであろう彼女の自由奔放さは、義理の母、皇太后ゾフィーとの間で軋轢を生み、また、王権神授説を奉じる夫フランツ・ヨーゼフ1世との性格の違いによる溝は埋めようもありませんでした。

エリザベートは伝統と格式を重んじる宮廷を嫌い、旅を愛し、大西洋上のマディラ諸島、ドイツ、バイエルンのシュタルンベルク湖畔、湖に近在の実家のポッセンホーフェン城、ハイデルベルグ、とりわけギリシャのコルフ島には居館を建てて長期に滞在することが多くなりました。ハンガリーにおける民族独立運動にも少なからず同情していたことも知られています。

1881年、長男でオーストリア=ハンガリーの皇太子であったルドルフが外交官アルビン・フォン・ヴェッツェラ男爵の娘マリー・フォン・ヴェッツェラと情死するという事件が起きました。(マイヤーリンク事件)

'Empress Elisabeth of Austria' ,1899
Painting/Leopold Horovitz, 1899 [Public Domain Via Wikimedia Commons]

衝撃を受けたエリザベートは以後喪に服し、自身が襲撃され死去するまで黒衣を通しました。

晩年は女官スターライ伯爵夫人のみを伴い街歩きをするなど、護衛官たちも苦労したようです。伝記作家は晩年の皇妃をそれとは知らず目撃したイタリア人の女優の言葉を伝えています。

「ひとりは喪に服しているようだった。襟の高い黒いドレスに黒い編み上げ靴をはいて、黒い帽子をかぶり、厚いベールを帽子の広いつばの上にあげていた…」(『エリザベート、美しき皇妃の伝説』ブリギッテ・ハーマン)

1898年9月10日、イタリア人の無政府主義者ルイジ・ルッケーニはジュネーブに滞在していたオルレアン公アンリの暗殺をもくろんでいました。ところが、謀計はアンリがすでにジュネーブを離れてしまっていたため果たせず、ルイジは落胆していました。

しかし、ルイジは、その朝、目にした新聞記事にオーストリア=ハンガリー皇妃エリザベートが滞在していることを知り、凶行を思い立ちました。王侯貴族であれば誰でもよかったと、彼は犯行後に語っていたとのことです。

ホテル前で待ち伏せしていたルイジはアイスピックのように鋭くとがった凶器で皇妃の胸を深く突き通しました。皇妃が受けた傷は一見小さな傷で、はじめ衝撃で仰向けに倒れたものの、すぐに立ち上がり、組み伏せられた犯人のルイジをしりめに、モントルー行きの蒸気船に乗り込みました。しかし、実は凶器は彼女の心臓に達しており船が岸壁を離れると間のなく倒れこみそのまま死去しました。

ルイジは得意満面に凶行を誇り、「働く者だけが食っていいのだ!」と繰り返していたとのことです。終身刑に架せられたルイジは11年後、刑務所内で首吊り自殺をとげました。

1964年、ドイツのタンタウ社が育種・公表したモーヴ(藤色)のハイブリッド・ティー(HT)は、英語圏や日本では‘ブルームーン(Blue Moon)’の名で親しまれている人気品種ですが、フランスではエリザベートに献じられ‘シシー(Sissi)’と呼ばれることも。エリザベートはごく親しい人々の間でシシーと呼ばれていたことにちなんだものです。

また、1998年、ニュージーランドのマクレディ4世が育種・公表したHTは、今日ではあまり出回っていないようですが、‘エンプレス・エリザベート(Empress Elizabeth)’と命名されています。

ブルームーン(Blue Moon)
ブルームーン/シシー(Blue Moon/Sissi)、HT by Tantau, 1964
Empress Elizabeth
‘Empress Elizabeth’ Photo/, HT by McGredy IV [CC BY SA4.0 via Wikimedia Commons]

ウジェニー・ド・モンティジョ(Eugénie de Montijo: 1826-1920)

後に不朽の名作『カルメン』を書きあげることになるフランスの青年作家プロスペリ・メリメ(Prosper Mérimée)はスペイン旅行中、隻眼で片足が不自由ながら陽気なテバ伯爵ドン・シプリアーノ・パラフォクス・イ・ポルトカレッロと親しくなりました。
マドリードにあるドン・シプリアーノのアパルトマンに招待されたメリメはふたりの幼い姉妹を紹介されました。

姉はパカ(Paca)という愛称のマリア・フランシスカ、妹はマリア・ウジェニー(スペイン語では“エウヘニー”と発音。愛称としても使われていた)でした。妹のウジェニーは後にフランス第2帝国皇帝ナポレオン3世の皇后となります。

ドン・シプリアーノは大のフランス贔屓でしたし、隻眼と不自由な足の訳もフランス軍とスペイン、ポルトガル、英国連合軍との間で勃発したスペイン戦争(1808-1814)においてスペイン貴族でありながらフランス軍に従軍して負傷したことによるのでした。

メリメはスペインの風土と文化を深く愛し、たびたびドン・シプリアーノ宅を訪問し、パカとウジェニーの成長を親しく見守ることになりました。沈み込んだり、感情を爆発させたりしがちなウジェニーをメリメは「毛むくじゃらの雌獅子」と呼んだりもしました。

1842年、一家は第15代アルバ公爵ヤコブ・フィッツ=ジェームズ・スチュアートの訪問を受けました。若い公爵はこの時二十歳。妃候補となりうる名門の淑女たちとの逢瀬を求めてのことであったろうと思われます。

公爵は姉妹にとっては従弟でもありました。黒髪と顎鬚、少し影があるようにも思える青年貴族に姉妹は夢中になりました。母のもくろみは姉のパカを嫁がせることでしたが、恋心に燃え上がった“毛むくじゃらの雌獅子”ウジェニーを静止しかねました。さまざまな曲折を重ねた末、母の思惑と姉の涙に負けてウジェニーが身を引き、公爵とパカとの婚姻が整うこととなりました。
傷心のウジェニーは修道院へ入ろうと考えたり、自殺しようと牛乳にマッチの燐を入れて飲んだりもしたようです。

時間がたつにつれ、輝くように美しい人参色の髪をした“高貴なじゃじゃ馬”には花婿候補が殺到するようになりましたが、姉が公爵夫人となったことが災いしてか縁談はなかなかまとまらず、“鉄の処女”と揶揄されることもあったようです。

Eugénie de Montijo
’皇妃となったウジェニー’ Painting/Franz Xaver Winterhalter, 1855 [Public Domain via Wikimedia Commons]

ナポレオン3世(Charles-Louis Napoléon Bonaparte:1808-1873)

ナポレオンの甥という出自を手だてとして、権力と富の獲得に奔走するルイ・ナポレオンはたびたびクーデターを企て、国外追放、幽囚、脱獄などを繰り返していました。

Charles-Louis Napoléon Bonaparte
Painting/Franz Xaver Winterhalter, 1853 [Public Domain via Wikimedia Commons]

1848年2月、フランスはルイ・フィリップによる王制が崩壊しました。(パリ2月革命)

亡命先ロンドンからフランスの政治情勢を見定めていたルイ・ナポレオンは9月にパリに戻り、議会議員補欠選挙に出馬して当選を果たしました。さらに同年の12月に行われた第2共和政大統領選挙にも立候補し、“ナポレオン”の名が効果を奏したのか圧勝し大統領に就任します。

1851年12月2日、議会との軋轢に業を煮やしていたルイ・ナポレオンは綿密な計画をめぐらせ、警察を使って議員たちを逮捕するというクーデターを起こしました。(「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日のクーデター」)

1852年、ルイ・ナポレオンは国民投票を受けて皇帝に即位し、自らをナポレオン3世と称するようになりました。

漁色に明け暮れ評判の良くなかったナポレオ3世は、このときもロンドン時代からの愛妾ミス・ハワード(実際には結婚していたので“ミス”ではない)を日常の伴侶としていました。しかし、フランス皇帝としての体面上“皇后”の存在が求められていました。

1853年、ナポレオン3世(45歳)とウジェニー(27歳)は婚約し、同年末には結婚式をあげました。ウジェニーはナポレオン3世のひどい漁色癖は承知のうえだったでしょう。しかし、“皇妃ウジェニー”の響きにはうっとりしたのではないでしょうか。恋する公爵をかつて奪った姉パカは“公爵夫人”でしかなかったのですから。

ナポレオン3世はすぐに漁色癖を取り戻したようで、ミス・ハワードとの仲も元の鞘に収まったようですが、ナポレオン3世は皇嗣の誕生を望み、ウジェニーもそれを望んでいたことでしょう。しかし、ウジェニーの初めての妊娠は流産に終わり、周囲の期待を裏切りました。

1856年、二人の間に待望の男児が誕生しました。ナポレオン・ウジェーヌ・ルイ・ボナパルト(Napoléon Eugène Louis Bonaparte:1856-1876)です。こ待望の男児誕生はナポレオン4世とも呼ばれ、フランス中の祝福を浴びました。

皇妃ウジェニーと皇嗣誕生を祝い、バラにその名が残されています。

1855年、アンペレラトリス・ウジェニー(Impératrice Eugénie)hybrid bourbon, Béluze
1856年、アンペレラトリス・ウジェニー(Impératrice Eugénie) moss by Jean-Baptiste (père) Guillot
1858年、アンペレラトリス・ウジェニー(Impératrice Eugénie) HP by Pierre Oger

'Impératrice Eugénie' HP by Pierre Oger
‘Impératrice Eugénie’ HP by Pierre Oger, 1858, Illustration/Stroobant [Public Domain via Wikimedia Commons]

1860年、フランスのボルドーのバラ育種家ラトレー・フィスは皇嗣ルイの誕生を記念して“アンファン・ド・フランス(Enfant de France:”フランスの子/皇嗣の意“)を公表しました。

明るいピンク、花芯が色濃く染まる美しい大輪花、返り咲きする性質をそなえたハイブリッド・パーペチュアル(HP)です。

Enfant de France
‘Enfant de France’ Hybrid Perpetual, Lartay, 1860

実はこの品種名は早逝したナポレオン・ボナパルトの嫡子ナポレオン2世が誕生したときにも使われていましたので、新たな“フランスの子”と命名したのだと思われますが、同名品種がいくつか残されることになり、後の時代には混同しがちになってしまいました。

ナポレオン2世にちなんだバラ
1817年、Enfant de France (gallica, syn. ‘Roi de Rome’)
1826年、Enfant de France nouveau

ナポレオン4世にちなんだバラ
1860年、Enfant de France (Hybrid Perpetual, Lartay, 1860)

1870~1871年、フランスはスペインの王位継承問題を巡ってビスマルクが主導するプロシャと対立し、フランス対プロシャおよびドイツ連邦との間で戦闘が勃発しました。(普仏戦争)

フランスはセダムの戦闘でナポレオン3世自身が捕虜となったうえ、パリ占領されるというみじめな敗北を喫しました。

ナポレオン3世は、退位し、ウジェニーとルイ(ナポレオン4世)を伴って英国へ亡命しました。

1873年、ナポレオン3世は死去。ウジェンヌは更なる不幸に襲われます。

1879年、英国軍に入隊していたルイ(ナポレオン4世)はズールー戦争に従軍中に戦死してしまったのです。

'Eugène-Louis-Napoléon, Prince Imperial of France
‘Eugène-Louis-Napoléon, Prince Imperial of France ‘ Painting/Robert Antoine Müller, 1879 [Public Domain via Wikimedia Commons]

ナポレオン3世、嫡子である4世をともに失ったウジェニーは余生を英国南部のヨークシャー、ファーンバラの館で、静かに、しかし、寂しくで過ごしていましたが、1920年、姉パコの孫にあたるアルバ17世公爵をマドリードに訪問している際に死去しました。94歳の大往生でした。

アレクサンドラ・オブ・デンマーク(Alexandra of Denmark:1844-1925)

アレクサンドラ・オブ・デンマークはイギリス連合王国皇太子であったエドワードと結婚し、エドワードがヴィクトリア女王のあとエドワード7世として王位を継いだことで、英国王妃、インド帝国皇后となりました。

'Queen Alexandra when Princess of Wales'
‘Queen Alexandra when Princess of Wales’ Painting/Franz Xaver Winterhalter, 1864 [Public Domain via Wikimedia Commons]

アレクサンドラは、“シシー(Sissi)”や“エウヘニー(Eugenie)”のように美貌の皇妃として、後の時代にも語り継がれるほど著名ではありませんでしたが、彼女たちと同じ時代に生き、美貌を誇った高貴な女性のひとりです。

デンマークの王族、グリュックスブルク公子クリスチャンとその妃ルイーセの長女として誕生したアレクサンドラは父がデンマーク王位を継ぐまでは財力に乏しく、つましく暮らしていたようです。

1863年、国王の系統からは遠かった父、皇嗣が誕生せず、はからずもデンマーク国王クリスチャン9世として王位につくことになりました。一家の生活環境は一変し、妹のダウマー(マリー・ソフィー・フレゼリケ・ダウマー:Marie Sophie Frederikke Dagmar、のちロシア皇帝アレクサンドル3世の皇后)とともに、美貌の王女としてヨーロッパ中に知れ渡ることになりました。

英国のヴィクトリア女王は、こうした評判を聞きつけ、皇太子アルバート・エドワードとアレクサンドラとの婚姻をはかります。アルバートの際限のない女性遍歴に手を焼いていたことから、早く身を固めさせようとしたのだと言われています。

1863年、ふたりは盛大な結婚式をあげ、アレクサンドラはプリンセス・オブ・ウェールズの称号を得ることになりました。エドワード21歳、アレクサンドラ18歳でした。

1901年、ヴィクトリア女王が死去し、エドワードはエドワード7世として王位に就き、アレクサンドラは英国王妃となりました。

夫アルバートの女性遍歴は結婚後も耐えることがなったことは、あらかじめ予想されていたこでしょうが、アアレクサンドラは、シシーのように帝国の儀礼をさけて旅に明け暮れたり、ウジェニーのように“男の女遊び”の悪評を受け流す寛容さは持ち合わせいなかったようです。

絶えず聞こえてくる夫の醜聞にいらだち、屈辱に耐えかねて鬱屈し、夫の愛人たちを憎み口汚くののしるのが常であったとのことです。とくに、エドワード7世が “La Favorite(お気に入り)”と呼んでいた愛妾アリス・ケッペル(Alice Keppel)は死期をさとったエドワード自身が枕元へ呼び寄せたにもかかわらず、アレクサンドラが彼女を病室に近づけなかったとのことです。(Wikpedia記事、202411-24検索)

Portrait of Alice Keppel
‘Alice Keppel’ Painting/unknown, 1890-1900 [Public Domain via Wikimedia Commons]

シシーもウジェニーも愛する長男の死にあいという不幸に打ちひしがれたことにはすでに触れましたが、アレクサンドラも1892年、長男で王位継承者(次代のプリンス・オブ・ウェールズ)と目されていたアルバートをインフルエンザによって失うという不幸に直面することになってしまいました。

美貌を歌われたアレクサンドラでしたが、実は瘰癧(るいれき:結核性のリンパ節の炎症)の後遺症で頸部に傷痕が残っていて、残された彼女の肖像画からもわかりますが、傷跡を隠すために髪をたらしたり、チョーカーで首回りを覆ったりすることが常でした。

1910年、エドワード7世、死去。わずか10年ほどの王位でした。
アレクサンドラは1925年に死去しました。

なぜプリンス・オブ・ウェールズが皇太子なのか?

14世紀初頭、イングランドがウェールズを征服したことをゆるぎないものにするため、身重の王妃をウェールズにやり、誕生した男児(嫡子)をウェールズの支配者、プリンス・オブ・ウェールズに任じたことによります。

皇太子妃はそれによりプリンセス・オブ・ウェールズと呼ばれることになりました。その慣例は14世紀初頭から今日まで続いていることは、ご承知のとおりです。

アレクサンドラ皇太子妃にささげられたバラが今日まで伝えられています。

Princess of Wales, Light Pink HP, 1871 by Thomas Laxton

Princess of Wales' HP 1871 by Laxton
‘Princess of Wales’ HP 1871 by Laxton, Photo/Salicyna [CC BY SA4.0 via Wikimedia Commons]

なお、1997年8月31日、フランス・パリで交通事故を起こして死去したダイアナ妃にも皇太子妃時代に同名のバラが捧げられています。

Princess of Wales, White Floribunda, 1997 by Harkness

'Princess of Wales' Floribunda,1997 by Harkness
Princess of Wales‘ Floribunda,1997 by Harkness
Diana, Princess of Wales, Light Pink Hybrid Tea, 1998 by Dr. Keith W. Zary

Diana, Princess of Wales, Light Pink Hybrid Tea, 1998 by Dr. Keith W. Zary

1890年代、美貌が讃えられた3人の皇妃、王妃たちをご紹介しました。

シシーとアレクサンドラはヴィクトリア女王主催の晩餐会で顔を合わせ、しばし会話を交わしました。
シシーとウジェニーもザルツブルグで対面を果たしましたので、美しい3人の皇妃、王妃たちは親しいという仲ではなかったのですが、たがいに見知っていた仲ではありました。

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アンファン・ド・フランス(Enfant de France)https://ggrosarian.com/2024/12/02/%e3%82%a2%e3%83%b3%e3%83%95%e3%82%a1%e3%83%b3%e3%83%bb%e3%83%89%e3%83%bb%e3%83%95%e3%83%a9%e3%83%b3%e3%82%b9%ef%bc%88enfant-de-france%ef%bc%89/Mon, 02 Dec 2024 03:14:03 +0000https://ggrosarian.com/?p=2023

11㎝から13㎝径、花弁が密集したロゼッタ咲きまたはクォーター咲き、カップ型の花形となります。ライト・ピンクの花色、花弁の縁はわずかに色抜けするため、花色に陰影ができ、非常に優雅です。強く香ります。150cmから210c ... ]]>

どんなバラ?

11㎝から13㎝径、花弁が密集したロゼッタ咲きまたはクォーター咲き、カップ型の花形となります。
ライト・ピンクの花色、花弁の縁はわずかに色抜けするため、花色に陰影ができ、非常に優雅です。
強く香ります。
150cmから210cm高さ、全体的にこんもりとしたブッシュ樹形となります。自然樹形を生かすか、また、ピラー仕立てにも向いた樹形です。

品種名の由来など

1860年、フランスのクレメンス・ラルテにより育種・公表されました。交配親はわかっておりません。
アンファン・ド・フランス(フランスの息子)とは、ナポレオン3世の息子、ウジェーヌ・ルイ・ジャン・ジョゼフ・ボナパルト/Eugène Louis Jean Joseph Bonaparte(1858-1879)の愛称です。

Napoléon, Prince Imperial,
‘Napoléon, Prince Imperial’ Photo/André Adolphe Eugène Disdéri, c. 1859-1863 [Public Domain via Wikimedia Commons]


3世夫妻は子宝にめぐまれずにいましたが、ようやく男子を得て国をあげてのよろこびとなりました。それが”フランスの息子”と呼ばれるゆえんです。
1870年、第2帝政の崩壊の際、父であるナポレオン3世、母ウジェニーとともに英国へ亡命しまた。
英国王室の保護のもと成長し、長じてから兵学校へ入学。卒業後、アフリカで勃発したズール戦争に従軍し、戦死しました。21歳の若さでした。

'Eugène-Louis-Napoléon, Prince Imperial of France '
‘Eugène-Louis-Napoléon, Prince Imperial of France ‘ Painting/Robert Antoine Müller, 1879 [Public Domain via Wikimedia Commons]


フランス共和政の許で、なお、帝政への回帰をめざしていたボナパルティストたちにとっては、ナポレオンの嫡流が絶えてしまったことを意味し、深い失望を与えました。
実はナポレオン・ボナパルトの嫡子であったナポレオン2世が誕生した際にも、後継ぎの誕生を記念した”アンファン・ド・フランス”というバラ(アルバ、ガリカなど)があり、混乱が生じがちです。
このアンファン・ド・フランスが一番流通しているのですが、品種を特定するには、

1860年、Lartay作出のハイブリッド・パーペチュアルのアンファン・ド・フランス

というふうに、常にコメント付きで述べる必要があります。

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プリンセス・オブ・ウェールズ(Princess of Wales)https://ggrosarian.com/2024/12/01/%e3%83%97%e3%83%aa%e3%83%b3%e3%82%bb%e3%82%b9%e3%83%bb%e3%82%aa%e3%83%96%e3%83%bb%e3%82%a6%e3%82%a7%e3%83%bc%e3%83%ab%e3%82%ba%ef%bc%88princess-of-wales%ef%bc%89/Sun, 01 Dec 2024 12:37:00 +0000https://ggrosarian.com/?p=2039

9cmから11cm径の丸弁咲きの花形、クリーム色のつぼみは開花すると透き通ったようなホワイトとなります。頻繁に返り咲きする、フロリバンダです。アイスバーグに劣らないほど、ひんぱんに返り咲きします。香りはわずかです。丸みを ... ]]>

どんなバラ?

9cmから11cm径の丸弁咲きの花形、クリーム色のつぼみは開花すると透き通ったようなホワイトとなります。
頻繁に返り咲きする、フロリバンダです。アイスバーグに劣らないほど、ひんぱんに返り咲きします。
香りはわずかです。
丸みを帯びた深い葉色、少ないけれど大きなトゲ、固めの枝ぶりの120cm180cm高さほどのブッシュとなります。

品種名の由来

1997年、イングランドのハークネス(Harkness)社から育種・公表されました。当時のダイアナ・プリンセス・オブ・ウェールズに捧げられた品種です。交配親は公表されていません。

ダイアナ、プリンセス・オブ・ウェールズ
’Diana, Princess of Wales’ Photo/unknown [CC BY SA2.0 via Wikimedia Commons]


ダイアナはスペンサー伯家に生まれ、1981年、チャールズ皇太子と結婚しプリンセス・オブ・ウェールズとなりました。
イングランド国王は隣接する独立国であったウェールズを併合し、その統治者、プリンス・オブ・ウェールズを任命します。このプリンスはイングランド王位継承権の第一位となることから、皇太子を意味しています。イギリスでは皇太子のことをプリンス・オブ・ウェールズと呼ぶのはそのためです。
皇族としての華やかな日常から、皇太子の不倫などから過食症を患ったり、また、1996年、正式離婚、1997年の悲劇的な事故死など、華やかさと波乱にみちた生涯でした。この品種は、故ダイアナ元妃が生前、肺疾患者のための基金に貢献したことを記念して命名されました。

その他のプリンセス・オブ・ウェールズ

1871年、ラクストン(Thomas Laxton)作出のピンクのハイブリッド・パーペチュアル
1882年、ベネット/Bennettが作出したイエローのティー・ローズなど、同名の品種がほかにもあります。


両品種とも、当時の英国皇太子であったアルバート・エドワード(のちのエドワード7世)の皇妃、アレキサンドラ(Alexandra, Princess of Wales)に捧げられたものです。デンマーク王クリスチャン9世の子、品のある美しい容姿が人々から賞賛されていましたが、夫アルバート・エドワードは女優などと浮気を繰り返すイギリス王族の”伝統的”な人物でした。

現在の国王チャールズ3世の王妃カミラ(Camilla Rosemary Shand)はエドワード7世の愛妾であったアリス・ケッペル曾孫孫にあたります。不思議な因果を感じさせます。

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ダマスクローズ~古い由来の香りのバラ(1800年代~育種家の時代)https://ggrosarian.com/2024/12/01/%e3%83%80%e3%83%9e%e3%82%b9%e3%82%af%e3%83%ad%e3%83%bc%e3%82%ba%ef%bd%9e%e5%8f%a4%e3%81%84%e7%94%b1%e6%9d%a5%e3%81%ae%e9%a6%99%e3%82%8a%e3%81%ae%e3%83%90%e3%83%a9%ef%bc%881800%e5%b9%b4%e4%bb%a3/Sun, 01 Dec 2024 08:26:00 +0000https://ggrosarian.com/?p=1345

ダマスクローズは13世紀あるいはそれ以前かもしれないとされるなど、古い時代にヨーロッパへもたらされたためどんな由来なのかを調べることが出来ない品種ばかりでした。しかし、1800年代にはいると、ダマスクローズもケンティフォ ... ]]>

育種家によるダマスクローズの登場

ダマスクローズは13世紀あるいはそれ以前かもしれないとされるなど、古い時代にヨーロッパへもたらされたためどんな由来なのかを調べることが出来ない品種ばかりでした。
しかし、1800年代にはいると、ダマスクローズもケンティフォリアや改良されたガリカの後を追うように美しい品種が生み出されるようになりました。

ドイツのシュワルツは完成の域に達したガリカを、オランダやベルギーからもたらされたケンティフォリアを元に本格的な育種に取り掛かるようになったデズメ、そして偉大な育種家であるヴィベールなどが数多くの華麗なバラを育種・公表するようになりました。
そうした環境下で、先人たちを追っていくつものバラ育種・栽培農場が開かれることとなりました。

こうしてダマスクローズにも、より大輪に、より多弁化となり、花色にも変化が生じました。
このことにより、ダマスクローズもケンティフォリアやガリカなどと区別がつきにくくなってゆきました。この時代以後、純然たるダマスクローズではなく、ふたつのクラスをまたがって登録されることもある品種も登場してくるようになりました。

今日でも入手可能な品種をいくつかご紹介します。

マダム・アルディ(Mme. Hardy)– 1832年、春一季咲き

1832年、フランス、パリのルクサンブール宮の庭丁であったJ-A ・アルディ(Julien-Alexandre Hardy)により育種・公表されました。アルディ夫人にささげられたものです。
凛として他を圧する気品あふれる白い花。甘くなごむ香り。たまご型の優美な葉。なにひとつ欠点のない“完璧”なバラであると、多くの研究家や愛好家に評されています。

「いまだ、どんなバラにも凌駕されていない…」(”Graham Stuart Thomas Rose Book”)という短い賛辞がすべてを物語っているのかもしれません。公表されてからすでに200年近くになるマダム・アルディですが、この美しさに匹敵する白バラはいまだに世に出ていないと言っていいのではないでしょうか。

マダム・ゾートマン(Mme. Zöetmans)– 1836年、春一季咲き

マダム・ゾートマン(Mme. Zöetmans)

1836年、フランスのマレスト(Marest)が育種・公表しました。交配親は不明です。

マレストが運営する園芸店はルクサンブール公園(当時は王宮庭園)にほど近い場所にあったようです。園芸店を運営かたがたバラの育種も行っていたのかもしれません。ピンクのHPコンテス・セシル・ド・シャブリラン(Comtesse Cécile de Chabrillant)、ピンク・アプリコットのティーローズ、スヴェニール・ド・デリス・ヴァルドン(Souvenir d’Elise Vardon)などを育種したことでも知られています。

デュク・ド・ケンブリッジ(Duc de Cambridge)– 1840年以前、春一季咲き

Photo/Huhu [Public Domain via Wikimedia Commons]


交配親の詳細ははっきりしていませんが育種の由来には二つの説があり、1840年以前とも、また1857年説もあります。

ひとつは、ハイブリッド・パーペチュアル(HP)の生みの親、フランスのジャン・ラッフェイが作出・公表したというもの。イギリスのバラ研究家トーマス・リバースが1840年版の著作のなかでこの品種に言及していることから1840年以前には市場へ提供されていたと解釈されています。(”Rose Amateur’s Guide”,1837, Thomas Rivers)

もうひとつは、1857年、マルゴッタン父(Jacques-Julien Margottin-père)がHPのマダム・フレミオン(Mme. Fremion)の実生種として市場へ出したとするものです。

1840年ころ、ラッフェイはHPの育種に専心していたことが知られています。また、マルゴッタン父もHPの育種に熱心でした。このデュク・ド・ケンブリッジは春一季咲きですので、HPにクラス分けされることはなく、ダマスクにされるのが適切だと思いますが、花形はHPに近いので、 “一季咲きのHP”と表現するのが一番イメージが合うような気がします。

イギリス王ジョージ3世の7男、ケンブリッジ公、アドルファス・フレデリック(Adolphus Frederick, Duke of Cambridge、1774-1850)にささげられました。

ベラ・ドンナ(Bella Donna) – 1840年頃、春一季咲き

1840年ころから市場へ出回っていることから、そのころ育種されたと思われますが、どこで、だれが、どんな交配親を使ってといった詳細はわかっていません。

美しい花、鮮烈な香り。ベラ・ドンナは”美しい女(伊語)”という意味ですが、ヨーロッパの湿地に自生するナス科の毒草の名前でもあります。
黒い果実、葉や根に含まれるヒヨスシアミン(Hyoscyamine)は猛毒とのことですが、局所麻酔、中枢神経興奮作用のある薬剤としても利用され、服用すると瞳孔を拡大させる効能があることから眼科の治療にも用いられるとのことです。大きな瞳で妖艶な美しさをふりまき、男たちを魅了する悪女といったところでしょうか。

ヘーベズ・リップ(Hebe’s Lip)– 1846年以前、春一季咲き

1846年ころ、イングランドのJ.C. リーが育種・公表したものの、その後流通が途絶えていました。1912年になって、ウィリアム・ポールが改めて市場へ紹介したと言われています。

交配親は不明ですが、ロサ・ダマスケナ(R. x damascene:”サマー・ダマスク”)とヨーロッパに広く自生している原種、ロサ・ルビギノサ(R. rubiginosa:”エグランティン”)との交配により育種されたというのが一般的な理解です。

ボツァリス(Botzaris)‐1856年、春一季咲き

Photo/Andrea Moro [CC BY SA-3.0 via Rose-Biblio]

1856年、フランス、ヴィベール農場を引き継いだフランソワ・A・ロベール(Français-André Robert)が育種・公表しました。
交配親は不明です。
花形、葉や枝ぶりの形状からダマスク種のひとつとされていますが、グラハム・トーマスやクルスマンなど著名な研究家は、白花であること、本来のダマスクの香りとは微妙に異なることなどから、交配にはアルバが関わったと考えていたようです。(“Graham Stuart Thomas Rose Book”, “The Complete Rose Book”)

この美しいダマスク・ローズは、独立戦争に参戦し英雄となったマルコス・ボツァリス(Markos Botsaris:1790-1823)に捧げられたとも、あるいは独立を果たしたギリシャで王妃付きの侍女としてその美貌を謳われたカテリナ・ロザ・ボツァリス(Katerina “Rosa” Botsari)に捧げられたとも言われています。

’Katerina “Rosa” Botsari ‘ Portrait/Joseph Karl Stieler  [Public Domain via Wikimedia Commons]

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ダマスクローズ~古い由来の香りのバラ(1700~1800年代)https://ggrosarian.com/2024/11/30/%e3%83%80%e3%83%9e%e3%82%b9%e3%82%af%e3%83%ad%e3%83%bc%e3%82%ba%ef%bd%9e%e5%8f%a4%e3%81%84%e7%94%b1%e6%9d%a5%e3%81%ae%e9%a6%99%e3%82%8a%e3%81%ae%e3%83%90%e3%83%a9%ef%bc%881700%ef%bd%9e1800%e5%b9%b4/Sat, 30 Nov 2024 01:00:36 +0000https://ggrosarian.com/?p=1336

18世紀の終わり頃になると、おもに王侯貴族のあいだでバラの花が庭やサロンの会場などで飾られるようになり、とくに大輪で花弁が密につまったケンティフォリアや赤や紫に花開くガリカが持てはやされるようになりました。 それに反しダ ... ]]>

育種の潮流の外にいたダマスクローズ

18世紀の終わり頃になると、おもに王侯貴族のあいだでバラの花が庭やサロンの会場などで飾られるようになり、とくに大輪で花弁が密につまったケンティフォリアや赤や紫に花開くガリカが持てはやされるようになりました。

それに反しダマスクは、強い香りが重宝されアロマオイルなどの原料としてトルコなどで大規模に栽培されていましたが、庭植えバラの育種の流れからは外れていました。

ケンティフォリアに較べると、花弁の数が少なく、花色は明るいピンクばかり。ガリカのように色変化を楽しめるわけでもなく、樹形もより大きくなりがちで、洗練さに欠けると評価されていたからだと思います。

そんなダマスクローズでしたが、今の時代まで伝えられた美しい品種が少なからず存在します。

セルシアナ(Celsiana)– 1732年以前、春一季咲き

鮮烈なダマスク香。中輪のセミ・ダブル、平咲きの花が房咲きとなります。

春一季咲きですが、開花の期間が長く、長い期間楽しみを与えてくれます。細いけれど固めの枝ぶり、中型のシュラブとなります。

耐寒性、耐病性ともにすぐれ、多くのバラ愛好家にダマスクの美点をすべて備えたすぐれた品種と評されています。

非常に古い時代にオランダで育種されたとみられています。

古くはロサ・ダマスケナ・ムタビリス(R. damascena mutabilis)と呼ばれていたようです。開花期間が長いことから、開花当初の明るいピンクと熟成して退色して白くなった花を同時に見ることからか、“ムタビリス(色変化)”という別名がつけられました。

1812年ころ、フランスの園芸研究家であったセル(Jacques-Martin Cels)に捧げられた、あるいは彼自身が世に紹介したとされとも言われています。このことから、“セルのバラ(Celsiana)”と呼ばれることになりました。

アルバに品種分けされているアメリア(Amelia)とよく似ていて、クラスも違う他人の空似の好例です。

アメリア(Amelia)-1823年、アルバ、春一季咲き

アメリア(Amelia)
アメリア(Amelia)

マリー・ルィーズ(Marie Louise)– 1810年以前、春一季咲き

マリー・ルィーズ(Marie Louise)
マリー・ルィーズ(Marie Louise)

大輪、丸弁咲あるいはロゼッタ咲き、花弁の数はケンティフォリア並みに多いですが花形は乱れがちです。花色はくすみがちながら深みのあるピンク、花弁にピンクと白の細かな筋が入ることがあり、とても美しいです。

ダマスクとしては少し小さめ。立ち性のシュラブとなります。

この品種の由来にはいくつかの説があります。

ロイ・E. シェファードは著作のなかで、この品種は1800年以前にすでに公表されていたと記述しています。

ジョワイオ教授はアガタ・インカルナータと同じ品種なのでさらに古いはずとも。さらにバラ研究家のディッカーソンはこの品種は17世紀にはすでに知られていたブラッシュ・ベルジックの別名だろう、とも言っていて、定説はありません。

ダマスクローズの頂点にあるといってよい優れた品種(”Graham Stuart Thomas Rose Book”)ですが、皮肉なことに、ナポレオンの2番目の妻の名を冠したこの品種は、ジョゼフィーヌがマルメゾン館の庭園に集めたバラ品種のひとつだと言われています。

古い時代にはブラッシュ・ベルジック(Blush Belgic)、ベル・フラマンド(Belle Flamand)など、別名称だったようです。時代が下がるにつれマリー・ルイーズという品種名がもっとも一般的なものになりました。

交配親は不明です。花弁が密集する花形からケンティフォリアにクラス分けされることもありますが、葉や樹形にはダマスクの特徴が濃厚に出ることが多く、ダマスクにクラス分けされるのが適切のように思います。

ナポレオン皇妃、マリー・ルイーズ

ちょっと触れましたが、マリー・ルィーズ(Marie Louise:1791-1847)は、ナポレオン・ボナパルトがジョセフィーヌと離婚した後、皇妃として迎えたオーストリア皇帝フランツ1世の娘、ハプスブルグ家の王女です。フランス革命の渦中でギロチン刑に架せられたマリー・アントワネットは大叔母にあたります。

“マリア・ルイーザとナポレオン2世” Painting/Joseph-Boniface Franque, 1811 [Public Domain via Wikimedia Commons]

実は、ハプスブルグ家が皇帝として君臨するオーストリーはナポレオン率いるフランス軍に何度も蹂躙され、マリーはナポレオンを忌み嫌っていました。

ジョゼフィーヌとの間に子ができないため、自分の生殖能力には欠陥があるのではないかと悩んでいたナポレオン(ジョゼフィーヌには前夫との間に2子があった)ですが、愛人との間に私生児が誕生したことにより、名家の淑女との間に子を設けて皇帝たる自分の子孫を残したいと思うようになりました。

そこでナポレオンはジョゼフィーヌを離縁し、マリー・ルイーズと婚儀をむすぶことにしました。この結婚は敵対するハプスブルグ家との間のもので政略結婚そのものでした。

婚儀が定められたときマリーは泣き暮らしたと伝えられています。しかし、結婚直後は、ナポレオンがマリーに穏やかに接したことから、フランスでの生活は平穏であり、嫡子ナポレオン2世にも恵まれました。

しかし、連戦連勝を重ね、無敵を誇ったナポレオンもロシア遠征で致命的な敗北を喫するなど、敵対するヨーロッパ諸国同盟に追われるようになり退位を余技なくされます。マリーはナポレオンがエルベ島へ流刑となった後はウィーンへ戻り、ナイベルグ伯と密通して娘を産むなどナポレオンとは疎遠になってしまいました。

ナポレオンが懇願し続けたにもかかわらず、マリー・ルイーズはエルベ島へ駆けつけることもありませんでした。ナポレオンがエルベ島を脱出し、パリへ向かっているという知らせを聞いたときには仰天して、「またヨーロッパの平和が危険にさらされる」と言ったと伝えられています。(”Wikipedia”など)

政略結婚であったにせよ、また、密通などにはかなり寛容な時代風潮があったにせよ、”英雄”ナポレオンン・ボナパルトの”不実”な妻という悪名を後々まで残すことになってしまったのはある意味では気の毒なことだと言えるかもしれません。

レダ(Leda)– 1827年、春一季咲き

レダ(Leda)
レダ(Leda)

中輪、25弁ほどの小皿を重ねたようなオープンカップ型の花形となります。

つぼみは、開花すると深紅に縁取りされた白いバラとなります。筆で色つけしたように見えるため、ペインテッド・ダマスクと呼ばれることもあります。

強くはありませんが、甘い香り。

深い葉緑、細いですが強めの小さなトゲが密生する枝ぶり、120cmから180cmほどのブッシュとなります。

現在、ピンク・レダと呼ばれているダマスクが古い時代から、おもにフランス内で流通していました。ごく最近まで、ピンク・レダはレダの枝変わり種だとみなされていましたが、実際には逆で、1827年(1825年という説も)、英国において、このピンク・レダの枝変わりとして生じたのがこのレダだという説もあります。どちらが正しいのかは現在でもわかっていません。

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ブルー・ムーン(Blue Moon)https://ggrosarian.com/2024/11/26/%e3%83%96%e3%83%ab%e3%83%bc%e3%83%bb%e3%83%a0%e3%83%bc%e3%83%b3%ef%bc%88blue-moon%ef%bc%89/Tue, 26 Nov 2024 02:49:42 +0000https://ggrosarian.com/?p=1991

11cmから13cm径、25弁前後の高芯咲きの花となります。モーヴ(藤色)あるいは薄いライラック色となる花色。鮮烈な芳香。(強香)120cmから180cmほどの立ち性のがっしりとした太く固い枝ぶりのブッシュとなります。日 ... ]]>

どんなバラ

11cmから13cm径、25弁前後の高芯咲きの花となります。
モーヴ(藤色)あるいは薄いライラック色となる花色。
鮮烈な芳香。(強香)
120cmから180cmほどの立ち性のがっしりとした太く固い枝ぶりのブッシュとなります。
日当たりのよい場所に数株寄せ植えすると、庭に涼しげな印象をもたらしてくれます。

ドイツ、タンタウ社が1964年に育種・公表しました。交配親の詳細は不明のままですが、多くのモーヴ(藤色)の品種の交配親となったスターリング・シルバーを種親にしたのだろうと見られています。

別名など

フランス語圏では、美貌のオーストリア皇帝妃エリザベートの愛称であるシシー(”Sissi”)という品種名で販売されることもあるようです。

Kaiserin Elisabeth von Österreich-Ungarn Painting/Franz Xaver Winterhalter, 1865 [Public Domain via Wikimedia Commons]

藤色の品種は病害虫に弱い性質を持つことが多いのですが、そうしたなかでは比較的丈夫な性質を示します。ドイツのコルデス社が2010年にノヴァーリス(Novalis)を市場へ提供するまでは、最良の”青バラ”と言われていました。

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フジバカマ(藤袴: Eupatorium japonicum)https://ggrosarian.com/2024/11/13/%e3%83%95%e3%82%b8%e3%83%90%e3%82%ab%e3%83%9e%ef%bc%88%e8%97%a4%e8%a2%b4%ef%bc%9a-eupatorium-japonicum%ef%bc%89/Wed, 13 Nov 2024 02:13:31 +0000https://ggrosarian.com/?p=1865

フジバカマ(藤袴: Eupatorium japonicum)はキク科ヒヨドリバナ属の多年草。日本の秋を彩る草花、秋の七草のひとつでもあります。 万葉の歌人として名高い山上憶良(やまのうえのおくら)が秋の七草に ... ]]>

フジバカマ(藤袴: Eupatorium japonicum)はキク科ヒヨドリバナ属の多年草。日本の秋を彩る草花、秋の七草のひとつでもあります。

万葉の時代から知られているフジバカマ

万葉の歌人として名高い山上憶良(やまのうえのおくら)が秋の七草について残した和歌があります。

秋の野に 咲きたる花を 指折りて かき数ふれば 七種
ななくさ
の花(『万葉集』巻8-1537)
萩の花 尾花葛花
おばなくずはな
 なでしこの花 女郎花
をみなへし
 また藤袴
ふぢばかま
 朝がほの花(『万葉集』巻8-1538)

このように、万葉の時代から知られていますが、実は日本の固有種ではなく、朝鮮半島または中国から渡来したと考えられています。

平安時代に入り、葉や茎に芳香があることが知られると貴族の間で、蘭(らん)」と呼ばれて愛でられ、乾燥させて刻んで匂い袋に入れたり、入浴剤として利用されました。

草丈は100㎝から150㎝ほど、開花期は晩夏から秋にかけて。日照のよい、河川敷などいくぶんか湿潤な土壌を好みます。以前は群生地も見られたようですが、開発が進んだ影響からか現在、環境省が定める準絶滅危惧(NT)に指定されています。(Wikimedia、2024.11.01閲覧)

学名 Eupatoriumの由来

紀元前2~1世紀、小アジア(現在のトルコ)にあったポントス国の国王であったミトリダテス6世エウパトル(Mithridates VI Eupator)にちなんで命名されました。

ミトリダテス6世は覇権をめぐって当時の共和政ローマとの間で抗争を繰り返しました。西アナトリアを征服した際には、そこに住む全てのローマ人、男女8万人すべてを殺戮したという残虐さも伝えられています。
紀元前66年、ついに命運つき、敵に包囲されたミトリダテス6世は毒薬を呑んで自害を図りますが果たせず、忠実な部下に自分を殺すよう命じとされています。
自死の試みに用いた毒薬はヒヨドリバナ属の一種を精製したものであったとのこと。そのことから、王の名EupatorにちなみEupatoriumという属名となりました。(Wikipedia、2024.11.01閲覧)

属名の分化

ユーパトリウムはかつては大きな属で数百種に及ぶの原種を含んだとても大きな属でした。現在ではDNA解析が進み、20以上の新しい属に分化されました。園芸に利用されている主な種は以下のようなものです。

  • ユーパトリウム(Eupatorium):別名ボーンセット(bonesets)、スネークルート(snakeroots)など。30~60種ほど。E. cannabinumのみヨーロッパ、北アフリカに自生している。他は主に北米地域および東アジア原産。日本に自生しているフジバカマ(E.  japonicum)およびヒヨドリバナは(E.  makinoi)はこの種に属する。
  • アゲラティナ(Ageratina):ユーパトリウムと同様に別名スネークルート(snakeroot)。300種ほど。アメリカ、メキシコ、西インド諸島原産、種名はアゲラタムに似た花形から。
  • ユートロキウム(Eutrochium):別名ジョー・パイ・ウィード(Joe-Pye weeds)、アメリカ、カナダ原産、5種ほどが知られる程度だが、E. maculatum ‘Atropurpureum’を交配親とした園芸種が多数存在する。
    種名はギリシャ語の”eu”(よく)と”troche”(車輪)から。互生の葉が輪生することに基づく。
  • コノクリニウム(Conoclinium):別名ブルーミストフラワー(Blue Mistflower)、アメリカ東南部および中西部原産。数種が知られる程度だが、美しい青花が愛でられ、白花への変異種とともに庭植えなどに使われている。

旧ユーパトリウムが20以上の属に分かれてしまったのですが、現在でも園芸種の表記には”ユーパトリウム”と表記されることが多くなっています。

国内で見かけるフジバカマと近縁種

国内各地の山道脇や河川堤などに自生しているヒヨドリバナ(Eupatorium makinoi)は同じユーパトリウム属ですがフジバカマとは別種です。両種はよく似ていて判別が難しいですが、葉が三裂するフジバカマと卵型の葉のヒヨドリバナという違いでだいたい区別できます。
じつはその他にも、湿潤地などで自生している品種があり、葉形もフジバカマとヒヨドリバナの中間的な性質を示すものもあり判別を難しくしています。

  • ヒヨドリバナ:葉は対生で、たまご形、縁は細かな鋸歯、草丈100~120㎝
  • サワヒヨドリ:葉は対生・たまご形、緩やかな鋸歯、輪生状となることが多い。ヒヨドリバナより湿生を好む。草丈30~80㎝
  • ハマサワヒヨドリ:サワヒヨドリの矮性株。海岸べりなどに生育している例が多いので”ハマ”が冠されている。草丈20~50㎝
  • フジバカマ:葉は対生・三裂していることが多い。湿生地を好むのはヒヨドリバナと同じ。準絶滅危惧種(NT)草丈100~150㎝
  • マルバフジバカマ:丸葉であることからその名があり国内各地で見られるが、実は北アメリカ原産の外来種。毒性があるため鹿などの野生動物が食さないことなどもあり、森林などへも進出している。草丈100~150㎝

園芸種の特徴

前述したように、旧ユーパトリウムがいくつもの属に分かれてしまった後も、園芸種の表記には”ユーパトリウム”とされていることが多く、市場では、古来のフジバカマ由来、ヒヨドリバナ由来、北アメリカ由来などが混在してしまっています。

ヨーロッパやアメリカにおいては、自国のの原種などを元に、花色、咲き方などをより魅力的に、また、ときに200㎝高さを超えるといった大株となりすぎる草丈を矮性化するなどの改良が加えられました。それらの品種は国内市場へ投入される際、多くは、”西洋フジバカマ”と呼ばれることが多くなっています。

以下は、現在比較的入手が容易なものです。

ユーパトリウム・カンナビヌム
Eupatorium cannabinum

ユーパトリウム・カンナビナム(Eupatorium cannabinum)
“Eupatorium cannabinum” Photo/Aporia.j [CC BY SA4.0 via Wikimedia Commons]
  • 別名:ヘンプ・アグリモニー(Hemp-Agrimony)、ホーリーロープ(Holy Rope)など
  • 花色:ピンク+藤色(モーヴ)の鈍色
  • 草丈:120~180㎝
  • 開花:晩夏~晩秋
  • 原産地:ヨーロッパ、北西アフリカ、トルコなど

ユーパトリウム・カンナビヌム(Eupatorium cannabinum)はヨーロッパ地域に自生する唯一のユーパトリウム種です。種小名のcannabinumuはギリシャ語のCannabis(麻)に由来。一般的にはヘンプ・アグリモニー(麻に似たの意か)、ホーリーロープとして知られています。

E. cannabinum ‘Plenum’はピンク/パープルが濃いめに出る選別種。草丈も100~120㎝といくぶんか低めになります。

ユートロキウム・マクラツム
Eutrochium maculatum

ユートロキウム・マクラツム
(Eutrochium maculatum)
“Eutrochium maculatum ‘Gateway’” Photo/Krzysztof Ziarnek, Kenraiz [CC BY SA-4.0 via Wikimedia Commons]
  • 別名:ジョー・パイ・ウィード(Joe-Pye Weed)など
  • 花色:ピンク+藤色(モーヴ)の鈍色
  • 草丈:180~210㎝
  • 開花:初夏~秋
  • 原産地:北アメリカ

草丈はときに200㎝を越え、株幅も100㎝ほどと大きな株となります。堂々たる株姿に感嘆することも。
葉色も茎も初夏から秋にかけて咲く花色もすべてが鈍色気味となるなど、庭では背景として利用されることが多いです。

葉や茎に芳香を含み、解熱、利尿の効用があることユーパトリウムと同様ですが、とくにこの種がジョー・パイ・ウィードと呼ばれているのにはジョー・パイと呼ばれたアメリカ先住民の呪術士についての言い伝えがあるためです。古くからある話のためか、様々なバリエーションがあります。だいたいはつぎのような物語です。

16世紀、北アメリカには英国、フランス、オランダなどのヨーロッパ諸国からの移民がそれぞれコロニーを作って必死に開拓に励んでいた時代。
ある英国人コロニーに腸チフスが蔓延し深刻な危機に陥りました。
これに救いの手を差し伸べたのが、先住民モヒカン族の呪術士でしたが、移住者たちは彼と知己のあいだがらであり、ヨーロッパ風なニックネーム、ジョー・パイと呼んでいました。
彼は、病に苦しむ移住者たちにユートリキウム/ユーパトリウムを煎じた薬を飲ませ、危機から救いました。

コロニーの住民たちは、この後、煎じ薬の元となった草をジョー・パイ・ウィードと呼ぶようになりました。

このユートロキウム・マクラツムの代表的な園芸種が’アトロプルプレウム’です。
アトロプルプレウムは原種と同じように200cm高さほどの大株となりますが、これを元品種として矮性となる園芸種が生み出されています。いずれも草丈だけが低いだけで花色、花形などアトロプルプレウムに似通ったものです。そのことから、これらの園芸種はアトロプルプレウム・グループと総称されています。

  • ‘アトロプルプレウム’ (Eutrochium maculatum ‘Atropurpureum’)、草丈200㎝
  • ‘ゲートウェイ’(E. maculatum ’Gateway’)、草丈200㎝
  • ‘ファントム’(E. maculatum ‘Phantom’)、草丈90㎝ほどの矮性種
  • ‘レッド・ドワーフ’(E. maculatum ‘Red Dwarf’)、草丈90㎝

ユートロキウム・デュビウム
Eutrochium dubium

  • 別名:コースタル・プレイン・ジョー・パイ・ウィード(coastal plain Joe-Pye Weed)など
  • 花色:ピンク+藤色(モーヴ)の鈍色
  • 草丈:120~150 ㎝
  • 開花:初夏~秋
  • 原産地:北アメリカ東岸

E. デュビウム種はアメリカ東部海岸の平地にみられる原種です。そのことから、海辺平地・ジョー・パイ・ウィード(coastal plain Joe-Pye weed)と呼ばれています。
草丈は120~150cmほどで、マクラツムよりも小型となります。
よく出回っている園芸種は、以下の2種。命名がとてもおもしろいです。

  • ‘リトルジョー’(E. dubium ‘Littel Joe’)、草丈90~120㎝の矮性種。命名はジョー・パイの小型種だからか。
  • ‘ベイビージョー’(E. dubium ‘Baby Joe’)、草丈60~80㎝で、リトルジョーよりさらに小さいので’ベイビー’

ユートロキウム・フィスツロスム
Eutrochium fistulosum

  • 別名:ホロー・ジョー・パイ・ウィード(Hollow Joe-Pye weed)など
  • 花色:白、わずかに鈍色気味
  • 草丈:150~200cm
  • 開花:初夏~秋
  • 原産地:アメリカ、カナダの東部

種小名の fistulosumはラテン語の fistulosus に由来します。茎が管状/中空になっていることを指すとのことです。
大型種ですが白花が出ることが多いので、庭植えなどで利用されています。
代表的な園芸種は’アイボリー・タワー(E.f. forma albidum ‘Ivory Tower’)’です。200㎝高さ、100㎝幅におよぶ大きな株姿にふさわしいと感じます。

アゲラティナ・アルティシマ ‘チョコレート’
Ageratina altissima ‘Chocolate’

“Ageratina altissima ‘Chocolate’” Photo/David J. Stang [CC BY SA-4.0 via Wikimedia Commons]
  • 別名:ホワイト・スネークルート(White Snakeroot)、マルバフジバカマなど
  • 花色:白、わずかに鈍色気味
  • 草丈:120~180㎝
  • 開花:晩夏~晩秋
  • 原産地:アメリカ、カナダの東部

アゲラティナ属は別種のアゲラタムに似た花形になることから命名されたことにはすでにふれました。
茶褐色の葉色となるものが選別され、’チョコレート’という園芸種名がつけられて流通しています。白花と茶褐色の葉色とのコントラストは、うっとりするほどの美しさです。
関東南西部以南では梅雨から盛夏にかけての湿潤期を越すのがむずかしいこともあるように思います。

和名はマルバフジバカマ。ユーパトリウムの仲間は、尖り気味、あるいは柏葉のような列状となる葉が多いのですが、この種は名前の通り、丸みのある葉が特徴的です。

通称名のスネークルートは、この草が蛇の咬み傷の治療に効果があると信じられていた時代があったことによります。しかし、このアゲラティナ・アルティシマは実際は有毒植物であり、牛や羊などが食害に遭うことがあるとのことです。

ユーパトリウム ‘羽衣’
Eupatorium ‘Hagoromo’

  • 別名:とくになし
  • 花色:ピンク、モーヴ、鈍色気味
  • 草丈:80~120cm㎝
  • 開花:夏~晩秋
  • 原産地:フジバカマorサワフジバカマの変異種か

葉が細裂して風情がある品種です。来歴はよくわかっていません。
古くから国内で流通する種類のため、日本のフジバカマの変異種か、雑種のサワフジバカマの品種ではないかと思われます。

ユーパトリウム ‘ピンク フロスト’
Eupatorium × arakianum ‘Pink Frost’

ユーパトリウム ‘ピンク フロスト’
Eupatorium × arakianum 'Pink Frost'
Eupatorium × arakianum ‘Pink Frost’
  • 別名:斑入りサワフジバカマなど
  • 花色:ピンク+白
  • 草丈:50~80㎝
  • 開花:秋
  • 原産地:フジバカマ+サワヒヨドリの交雑種?

サワフジバカマ(Eupatorium × arakianum)はフジバカマとサワヒヨドリの交雑種だとされています。
‘ピンクフロスト’は、美しい斑入り葉と明るいピンクの花色が美しい品種です。花のない季節でもリーフプランツとして庭を彩ります。

交雑種名アラキアヌムは、小学校での教職のかたわら植物採集・研究をされていた荒木英一氏の標本み基づくものだということです。(http://ptech.cocolog-nifty.com/”花日記”:2024_11_13閲覧)

ユーパトリウム・カピリフォリウム ‘グリーンフェザー’
Eupatorium capillifolium ‘Green Feather’

Photo/Mokkie [CC BY SA3.0 via Wikimedia Commons]
  • 別名:ドッグ・フェンネル(dog fennel)など
  • 花色:鈍色気味の白
  • 草丈:150~200㎝
  • 開花:秋
  • 原産地:アメリカ、本来の自生地は東南部であったが、中西部、北部へ進展している

種小名のcapillifoliumはラテン語の”羽状”という意味。種名の通り、細い裂葉が特徴的です。
高性で草丈200㎝を越えることがしばしばですが、株幅は60㎝ほどで収まることが多いので花壇の後景として、また群生させて茂みとしたり、目隠しにも利用できます。
秋に箒のような白花が開花した後、葉が茶褐色に枯れこむ姿には風情があります。

なお、独立行政法人農研機構により侵入危惧雑草種に指定されていて、牧草地などでは除去に心がけるように表示されています。

コノクリニウム・コエレスティヌム
Conoclinium coelestinum

コノクリニウム・コエレスティヌム
Conoclinium coelestinum
Mistflower (Conoclinium coelestinum blooming in Bird Park, Mount Lebanon
  • ブルーミストフラワー(Blue Mist Flower)、耐寒性アゲラタム
  • 花色:かすれ気味のライト・ブルー
  • 草丈:30~60㎝
  • 開花:晩夏~秋
  • 原産地:アメリカ、本来の自生地は東南部であったが中西部へも進展している

Conoclinium coelestinum は美しい青花が魅力的で、通称ミストフラワーと呼ばれています。
青花のアゲラタムに似ているため、多年草アゲラタムと呼ばれることもあります。白花の’アルバ(alba)’もよく見かけます。

種小名はラテン語、空色または天国のようなという意味です。

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忘れられた育種家、ルイ・パルメンティエhttps://ggrosarian.com/2024/11/11/%e5%bf%98%e3%82%8c%e3%82%89%e3%82%8c%e3%81%9f%e8%82%b2%e7%a8%ae%e5%ae%b6%e3%80%81%e3%83%ab%e3%82%a4%e3%83%bb%e3%83%91%e3%83%ab%e3%83%a1%e3%83%b3%e3%83%86%e3%82%a3%e3%82%a8/Mon, 11 Nov 2024 08:07:28 +0000https://ggrosarian.com/?p=1667“パルメンティエ家”の栄光と命名された美しいアルバローズ
フェリシテ・マルメンティエ(Félicité Parmentier)
Photo/Pascale Hiemann [CC BY SA3.0 via Rose-Biblio]

上の画像はフェリシテ・マルメンティエ(Félicité Parmentier;”パルメンティエ家の栄光”)と命名されたアルバローズです。
ロゼッタまたはクォーター咲き、熟成すると丸弁咲きの花形となります。
淡いピンク、花芯は色濃く染まり、緑芽ができることが多い、息を呑むほどに美しい花です。
蒼みを帯びた深い色合のつや消し葉、細めだが固めの枝ぶりとなる中型のシュラブ。アルバローズとしては比較的小さめな樹形。
華麗でそこはかとなく憂いを秘めたような、花色、花形、葉、樹形は精妙なバランスが保たれています。

今日まで美しいオールドローズが数多く伝えられていますが、そのなかにあっても特別に輝かしい品種だと思います。
ベルギーのルイ・ジョセフ・ジスレン・パルメンティエ(Louis-Joseph-Ghislain Parmentier:1782-1847)により育種されました。
この時代の常として、交配親は不明、育種年は1836年以前だということしか分かっていません。

偉大な育種家、ルイ・パルメンティエ

ルイ・パルメンティエは父アンドレ(Andre Parmentier:1738-1796) 、 母マリー・オルレアン(Mary Orlains :1748-1819)の11人兄弟の9番目の子として誕生しました。
兄ジョゼフ(Joseph Julien Ghislain Parmentier:1775-1852)はアンギャバンの市長をも勤め、熱帯植物などのコレクターとしても知られていた名士であり、また別の兄、父と同名のアンドレ(Andre Joseph Ghislain Parmentier:1780-1830)は米国ニューヨークへ移住し、ブルックリンに圃場を構え庭園デザインを行い、米国におけるガーデン・デザイナーの先駆と評されているなど、一族をあげた園芸一家であったようです。

パルメンティエ家の本拠地、ベルギーのアンギャン(Enghien:ブリュッセルの南西20㎞ほどの距離、エイヒーンと発音することも)において、パルメンティエは4半世紀以上にわたってバラの蒐集と育種を行いました。
1847年、彼は死去しました。

パルメンティエというとジャガイモと牛挽肉を用いたグラタン、”アッシ・パルメンティエ(Hachis parmentier)”を思い出す方も多いと思います。
実際、この料理は薬剤師、農学者、栄養学者で、ジャガイモの普及に努めたことで名高いアントワーヌ=オーギュスタン・パルマンティエ(Antoine-Augustin Parmentier:1737-1813)にちなんだものですが、姻戚関係にはなかったよです。

パルメンティエが残したバラ

ベルギー王立バラ協会(The Royal Rose Society ;”De Vrienden van de Roos” )のメンバーであるフランソワ・メルトン氏(Mons. François Mertens)は、1990年刊行のアンギャン考古学会報(ANNALES DU CERCLE ARCHEOLOGIQUE D’ENGHIEN, T. XXVI, 1990)の中でルイ・パルメンティエ育種のバラについて詳しく記述しています。

メルトン氏が論拠としたのはアドルフ・オットー(Adolf Otto)による『バラ園またはバラ栽培: “Der Rosengarten oder die Cultur der Rosen”)』で言及されたパルメンティエに関する記述でした。

それによれば、

パルメンティエの圃場では系統だった品番がつけられるなどていねいな品種管理がなされており、3000品種、12,000株のバラが栽培されていた…
そのなかには市場に提供されていない855の品種(うち800種はパルメンティエの庭園にのみ植栽されている)、255種は未命名のままであった…

とされています。

これはにわかには信じられないコレクションです。1815年ころ、ナポレオン前皇妃ジョゼフィーヌが金に糸目をつけず贅を尽くして収集した世に名高い”ジョゼフィーヌのバラ”は品種数250種ほどだったと考えられています。
30年が経過した後だとはいえ、3,000という品種数がいかに驚異的なものであったか想像できると思います。

このように、ルイ・パルメンティエは偉大なバラ育種家だったと思われます。なぜ「思われる」かには理由があります。
上述したように、パルメンティエが育種したと伝えられる800に及ぶオリジナル品種は、そうした伝承があるだけで実際には1847年の彼の死去後、競売に付され一部を除きほとんど散逸してしまったからです。

パルメンティエの消えた新品種


パルメンティエが精魂をこめた新品種は競売を経てフランスなどで当時活動していたバラ農場主の所有となり、その後、多くの品種はそれぞれの農場において新たな名前を付され市場へ出回るようになりました。

そのため、パルメンティエ作出品種の多くは別育種家により育種されたものとして記録されることとなってしまい、彼の作出とされるる800種のうち彼の育種品種として特定可能なものはわずかになってしまいました。

「バラはどこへ行ったの(Where have all the roses gone?)?」と声を大にして叫びたいところですが、今日でも、細々と消えたパルメンティエのバラを捜索するこころみは続けられています。

パルメンティエのバラを探す

先にあげた『1990年アンギャン考古学会報』には106品種がルイ・パルメンティエ作出として確認できる品種だと記載されています。
現在でも入手可能なものを挙げておきます。

  • アリス(Alice):白または淡いピンク(オールド・レース)のアルバ
  • アナイス・セガラ(Anaïs Ségalas):ディープ・ピンクまたはパープリッシュなクリムゾンとなるケンティフォリア
  • デジレ・パルメンティエ(Désirée Parmentier):ディープ・ピンクのガリカ
  • イネ・ド・カストロ(Inès de Castro):ペール・ピンクのケンティフォリア
  • マリー・ド・ブルゴーニュ(Marie de Bourgogne):ミディアム・ピンクのモス・ローズ
  • ベル・イジス(Belle Isis):ライト・ピンクのガリカ
  • ベラ・ドリア(Bella Doria):クリムゾンに白いストライプが入るガリカ
  • カーディナル・ド・リシュリュー(Cardinal de Richelieu;Rose van Sian):パープルのガリカ
  • ダゲッソー(D’Aguesseau):ミディアム・レッドのなるガリカ
  • イポリート(Hippolyte):パープルのガリカ
  • ナルキス・ド・サルヴァンディ(Narcisse de Salvandy):ディープ・ピンク/クリムゾン/チェリー・レッドのガリカ
  • ロズ・ド・スヘルフハウト(Rose de Schelfhout):ペール・ピンクのガリカ
  • トリコロール・ド・フランドル(Tricolore de Flandre):ピンク+ホワイトのガリカ

見つかったパルメンティエの品種

入手可能とされる上記のリストですが、すべてが簡単に入手できる状況にはありません。
以下はすでに入手困難なものもありますが、比較的出回っている品種です。

アナイス・セガラ(Anaïs Ségalas)

アナイ・セガラ(Anaïs Ségalas)
Photo/Rudolf [CC BY SA-3.0 via Rose-Biblio]

ディープ・ピンクまたはパープリッシュなクリムゾンとなるケンティフォリア。

一般的には1837年、ジャン=ピエール・ヴィベールにより育種・公表されたとされていますが、ルイ・パルメンティエは自分が育種したと記録に残しています。

アナイス・セガラ(1814-1895)はこの品種が公表された1837年、若干23歳でありながらすでに令名を馳せていた女性詩人です。

1836年、アナイは詩集『レ・オワゾー・ド・パッサージュ(Les Oiseaux de Passage:”渡り鳥”)』を公刊しました。
当時、育種家ジャン・ピエール・ヴィベールは美しいパープル/クリムゾンのケンティフォリアをパルメンティエから譲り受けていたと思われます。ヴィベールはこのケンティフォリアをアナイス・セガラスと命名して市場へ提供しました。(”From the notebook of a rosarian“, 2024.10.24閲覧)

デジレ・パルメンティエ(Désirée Parmentier)

デジレ・パルメンティエ(Désirée Parmentier)
Photo/Rudolf [CC BY SA3.0 via Rose-Biblio]

1841年のヴィベールのカタログや1843年のヴァン・ユウテのカタログなどに”オリジナル”品種として記述されているようですが、品種名はパルメンティエ夫人にちなむものですので、この品種も本来はパルメンティエ作出とするべきだとされています。

ルイとデジレ(Désirée Pletincx Lumay:1795-1868)との結婚は1818年、グスタフ(Gustave:1819-1840)という息子を得ましたが早世してしまい、直系の子孫は残りませんでした。

イネス・ド・カストロ(Inès de Castro)

淡いピンク花のケンティフォリアという記録がありますが、実株の入手は困難になってしまっているようです。品種名は「白鷺の首筋」と賛美されたポルトガル王が寵愛した女性にちなむんだものです。
日本では馴染みは薄いですが、ヨーロッパでは文学、絵画、音楽の題材として好んで取り上げられています。

“命乞いするイネス(部分)” Painting/Eugénie Servières, 1810 [Public Domain via Wikimedia Commons]

マリー・ド・ブルゴーニュ(Marie de Bourgogne)

マリー・ド・ブルゴーニュ(Marie de Bourgogne)
マリー・ド・ブルゴーニュ(Marie de Bourgogne)

1853年、ロベール(M. Robert)により育種・公表されたとされている美しいモス・ローズです。ロベールは1846年からヴィベール農場のガーデナーを勤め、1851年に農場を引き継いだ人物です。
この品種もルイ・パルメンティエの育種リストに記載されているということですので、ヴィベールがパルメンティエ圃場から入手し、さらにロベールに渡ったと思われます

ベル・イジス(Belle Isis)

ベル・イジス(Belle Isis)
ベル・イジス(Belle Isis)

飾りつけたような萼片に包まれていたつぼみは、開花すると中輪または大輪、カップ型、ロゼッタ咲きの花形となります。
淡いピンクの花色。ミルラ系の香りの典型とされる蟲惑的な香り。

ルイ・パルメンティエにより作出されました。
交配親は不明のままですが、ケンティフォリアや、ヨーロッパに広く自生している原種ロサ・アルベンシス(R. arvensis)の影響を感じ取っている研究者もいます。

デービット・オースチンはこのベル・イシスを交配親として最初のイングリッシュ・ローズであるコンスタンス・スプライを育成し、その後、輝かしい名声と栄光を手に入れました。

イシスはエジプト神話に登場する女神です。よき妻、よき母として、また豊壌を象徴していることから、エジプトからギリシャ、ローマへ伝えられ信仰の対象となりました。

ベラ・ドリア(Bella Doria)

ベラ・ドリア(Bella Doria)
Photo/AlmaohneHitch [CC BY SA3.0 via Rose-Biblio]

オープン・カップ型、クリムゾンに白いストライプが入るガリカ。現在市場に流通していますがパルメンティエ作出のものではなく、実際にはコマンダン・ボールペールとして流通している品種と同一のものではないかと疑問を呈する向きもあります。

カーディナル・ド・リシュリュー(Cardinal de Richelieu;Rose van Sian)

カーディナル・ド・リシュリュー(Cardinal de Richelieu;Rose van Sian)

中輪、花弁が乱れがちな深いカップ型の花。

花色は、深紅あるいは深いパープルとなりますが、中心は白を混ぜたように色が薄くなります。
パープルのガリカとして第一にあげられる名花です。

従来はオランダのヴァン・シアンという人物がフランスの育種家ラッフェイの元へ持ち込み、ラッフェイにより市場へ出されるようになったと解説されていました。
フランスのジョワイヨ教授はヴァン・シアン(Van Sian:”青”)という氏名の不自然さなどを指摘、実際にはルイ・パルメンティエにより作出されたのだろうと推論しました。現在ではこの推論が多くの研究家の賛意を得ています。

17世紀、フランス王ルイ13世のもとで宰相(在職:1624-1642)として辣腕をふるったリシュリュー枢機卿(1585-1642)にちなんで命名されました。

ダゲッソー(D’Aguesseau)

ダゲッソー(D'Aguesseau)

一季咲きのオールド・ローズのなかでは類稀れなミディアム・レッドの花色となるガリカ。

1836年、ヴィベールの育種とされることが多いのですが、上述の『アンギャン考古学会報』に記載されていることから、パルメンティエ圃場からヴィベールの手に渡ったのではないかと推察されます。(Francois Joyaux, “La Rose de France”)

アンリ・フランソワ・ダゲッソー(Henri François d’Aguesseau:1668-1751)にちなんで命名されというのが通説ですが、ヴィベールの孫にあたる、マルキス・ダゲッソー(Marquis d’Aguesseau)に捧げられたという説もあります。 (Stirling Macoboy, “The Ultimate Rose Book”)

イポリート(Hippolyte)

イポリート(Hippolyte)

ヴィオレットと表現するにふさわしい、深い色合いの花色です。
しばしば、もっとも完成されたガリカであると記述される、美しく、また、耐寒性、耐病性をそなえた品種です。

パルメンティエが生前公開した数少ない品種のひとつです。

1842年には、オランダの園芸家ルイ・ヴァン・ホウテ(Louis van Houtte:1810-1876)が残した文献に品種名が記されているとのこと。(”La Rose de France”)

全体としては、ガリカ・クラスの特徴を示していますが、樹形が比較的大きいこと、また、ケンティフォリアのように花弁が密集した花形など、典型的なガリカとは言えない特徴も備えており、交配には他のクラスに属する品種が使われたのではないかと言われています。

おそらくギリシャ神話に登場する女戦士アマゾンの女王イポリートにちなんだものだと思います。

この品種は、『アンギャン考古学会報』にリスト・アップされたパルメンティエ106品種に含まれていませんが、著名な品種ですので追加しました)

ナルキス・ド・サルヴァンディ(Narcisse de Salvandy)

ナルキス・ド・サルヴァンディ(Narcisse de Salvandy)
Photo/Krzysztof Ziarnek, Kenraiz [CC BY SA4.0 via Wikimedia Commons]

中輪または大輪、40弁ほどの丸弁咲き。
花色はチェリー・レッドまたはディープ・ピンク。古い記述によると花弁縁に白く色抜けするとのことです。

ルイ・ヴァン・ホウテにより市場に提供されましたが、ルイ・パルメンティエの作出と解釈されています。

19世紀初頭、ナポレオン没落後のフランス復古王制時に政治家として活躍した、ナルキス=アシル・サルヴァンディ(Narcisse-Achille de Salvandy:1795-1856)へささげられました。

現在入手可能なナルキス・ド・サルヴァンディは花色がモーヴ(藤色)気味の深いピンク単色となるものです。
しかし、ヴァン・ホウテによる園芸誌『ヨーロッパの温室/庭植え草花』1850 に記載されているイラストが残されているのものによれば、ディープ・ピンク/チェリー・レッドの花弁に白い覆輪が入る珍しい花色となっています。

オリジナルは失われてしまったか、または、枝接ぎを重ねているうちに先祖返りしてしまい、覆輪が失われてしまったと思われます。

ロズ・ド・スヘルフハウト(Rose de Schelfhout)

ロズ・ド・スヘルフハウト(Rose de Schelfhout)
ロズ・ド・スヘルフハウト(Rose de Schelfhout)

小さめですが、カップ型・ロゼッタ咲きとなる花形。
花色は淡いピンク、花弁の外縁はさらに淡く色抜けします。花芯に緑芽ができることもあります。
細く固めの枝ぶり、中型、立ち性のシュラブ。

花形、花色や明るい葉色など同じパルメンティエにより育種されたベル・イジスとよく似ていますが、ベル・イジスのほうが強いミルラ香に恵まれ、樹形もロズ・ド・シュルフトよりも大き目になります。

アンドレアス・スヘルフハウト(Andreas Schelfout:1787-1870)にちなんで命名されたというのが大方の理解です。

トリコロール・ド・フランドル(Tricolore de Flandre)

トリコロール・ド・フランドル(Tricolore de Flandre)
トリコロール・ド・フランドル(Tricolore de Flandre)

丸弁咲き、花色は淡いピンクにミディアム・ピンクの縞が入るストライプ。

前出のルイ・ヴァン・ホウテによる園芸誌『ヨーロッパの温室/庭植え草花』1846において紹介されたのが初出でした。そのため長くヴァン・ホウテ作出のバラとされてきましたが、園芸学者ヴァン・ユッテ自身は自ら育種を行うことはなかったことから、現在ではパルメンティエ作出の品種とされています。

Rose Tricolore de Flandore
(”Rose Tricolore de Flandore, Flore des serres et des jardins de l’Europe” by Louis Benoit Van Houtte, 1846 [Public domain. The BHL considers that this work is no longer under copyright protection.])

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アナイス・セガラ(Anaïs Ségalas)https://ggrosarian.com/2024/11/10/%e3%82%a2%e3%83%8a%e3%82%a4%e3%82%b9%e3%83%bb%e3%82%bb%e3%82%ac%e3%83%a9%ef%bc%88anais-segalas%ef%bc%89/Sun, 10 Nov 2024 02:00:13 +0000https://ggrosarian.com/?p=1721アナイ・セガラ(Anaïs Ségalas)
Photo/Rudolf [CC BY SA-3.0 via Rose-Biblio]

どんなバラ?

40弁ほどの大輪、ロゼッタ咲き、ディープ・ピンクまたはパープリッシュなクリムゾンの花色となるケンティフォリア。飾り付けたような萼弁で覆われた蕾も美しさも魅力の一部です。
強い香り。
150㎝高さほどの柔らかな枝ぶりのシュラブ。

育種の経緯

一般的には1837年、J.P. ヴィベールにより育種・公表されたとされていますが、ルイ・パルメンティエは自分が育種したと記録に残しています。彼の作出し、ヴィベールに譲渡したものと思われます。

品種名の由来

アナイス・セガラ(1814-1895)はこの品種が公表された1837年、若干23歳でありながらすでに令名を馳せていた女性詩人です。

Print/ Jules Léopold Boilly [CC BY SA4.0 via Wikimedia Commons]

1814年、パリに生まれたアナイスは幼年期より詩才を発揮し、15歳で王立裁判所の弁護士、ヴィクトール・セガラスと結婚、16歳のときには最初の詩集『レ・アルジェリエンヌ(Les Algeriennes:”アルジェリアの女”』を刊行しました。

彼女の最初の詩集の冒頭の詩の一部です。

奴隷/L'esclave
奴隷!奴隷だ!この私は!...分かりますか?自由な身の人、/Esclave ! esclave! moi !..sais-tu bien, homme libre,
奴隷とは何ですか?あなたは街の中で、/Ce que c'est qu'un esclave? au sein de ta cité,
あなたの耳の中で自然な空気が振動すると、/Et lorsque l'air natal à ton oreille vibre,
すべては自由の香りで…Tout parfumé de liberté…
(『レ・アルジェリエンヌ』、冒頭の詩、Google翻訳;仏語/英語/日本語利用)

女性の権利を主張してフェミニスト運動へ参加、また植民地主義への反対を唱えるなど、熱心なカトリック教徒としての道徳観をバックボーンとした平等主義を貫きました。

1836年、アナイは詩集『レ・オワゾー・ド・パッサージュ(Les Oiseaux de Passage:”渡り鳥”)』を公刊しました。
当時、育種家ジャン・ピエール・ヴィベールは美しいパープル/クリムゾンのケンティフォリアをパルメンティエから譲り受けていたと思われます。ヴィベールはこのケンティフォリアをアナイス・セガラスと命名して市場へ提供しました。(”From the notebook of a rosarian“, 2024.10.24閲覧)

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カーディナル・ド・リシュリュー(Cardinal de Richelieu;Rose van Sian)https://ggrosarian.com/2024/11/09/1726/Sat, 09 Nov 2024 02:04:58 +0000https://ggrosarian.com/?p=1726

中輪、花弁が乱れがちな深いカップ型の花。花色は、深紅あるいは深いパープルとなりますが、中心は白を混ぜたように色が薄くなります。パープルのガリカとして第一にあげられる名花です。 従来はオランダのヴァン・シアンがフランスの育 ... ]]>

どんなバラ?

中輪、花弁が乱れがちな深いカップ型の花。
花色は、深紅あるいは深いパープルとなりますが、中心は白を混ぜたように色が薄くなります。
パープルのガリカとして第一にあげられる名花です。

市場へ提供された経緯

従来はオランダのヴァン・シアンがフランスの育種家J. ラッフェイの元へ持ち込み、ラッフェイにより市場へ出されるようになったと解説されていましたが、ジョワイヨ教授は著作『ラ・ロズ・ド・フランス(La Rose de France)』の中で、ヴァン・シアン(Van Sian:”青”)という氏名の不自然さなどを指摘、実際にはルイ・パルメンティエにより作出されたのだろうと推論しました。現在ではこの推論が多くの研究家の賛意を得ています。

品種名の由来

17世紀、フランス王ルイ13世のもとで宰相(在職:1624-1642)として辣腕をふるったリシュリュー枢機卿(1585-1642)にちなんで命名されました。

”Cardinal_de_Richelieu” Painting/Philippe de Champaigne, around1633 [Public Domain via. Wikipedia Commons]

リシュリュー卿はフランス王権の拡大にほとんど唯一の価値を置いて、それを阻害するすべてを除去しようとした人物です。

ルイ13世の母で摂政であったマリー・ド・ミディシスに認められて政治に携わるようになり、1622年に枢機卿、1624年に宰相と栄達の道を究めました。

王権の拡大のためには、恩のある王太后マリーの失脚も画策し、国内ではプロテスタントを迫害しながら、オーストリーやスペインといったカソリックを国教とする国とも対決し、三十年戦争(1618-1648)では、オーストリー=ハプスブルグ家に対向するため、プロテスタント側に組するなど権謀術策の限りを尽くしました。

政敵も多く、失脚を狙う陰謀も何度か企てられましたが、その都度事前に察知して首謀者を処刑して難を逃れました。時代の流れを読んで権謀術策渦巻く政治世界をたくみに泳ぎきった政治家だったのでしょう。

A・デュマ父『三銃士(ダルタニアン物語)』に登場

リシュリュー卿はアレキサンドロ・デュマ作の長編小説『三銃士(ダルタニアン物語)』の中では紳士的でありながら冷徹で、スパイ網を駆使して王妃の陥れをはかるなど権謀術策をめぐらす、したたかな人物として描写されています。リシュリュー枢機卿の実像はおそらくこんなものであったろうと彷彿とさせる描写です。

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ベル・イジス(Belle Isis)https://ggrosarian.com/2024/11/08/%e3%83%99%e3%83%ab%e3%83%bb%e3%82%a4%e3%82%b8%e3%82%b9%ef%bc%88belle-isis%ef%bc%89/Fri, 08 Nov 2024 02:02:43 +0000https://ggrosarian.com/?p=1723

飾りつけたような萼片に包まれていたつぼみは、開花すると中輪または大輪、カップ型、ロゼッタ咲きの花形となります。花芯に緑芽ができることもあります。淡いピンクの花色。花弁の外縁はほとんど白と言ってよいほど色褪せます。ミルラ系 ... ]]>

どんなバラ?

飾りつけたような萼片に包まれていたつぼみは、開花すると中輪または大輪、カップ型、ロゼッタ咲きの花形となります。
花芯に緑芽ができることもあります。
淡いピンクの花色。花弁の外縁はほとんど白と言ってよいほど色褪せます。
ミルラ系の香りの典型とされる蟲惑的な香り。

経年するとこんもりとした大株へと生育します。庭をバラで飾るには最良の品種のひとつといっても過言ではないと思います。

イングリッシュ・ローズの交配親

ルイ・パルメンティエにより、1847年以前(彼の死去以前)に育種されました。
交配親は不明のままですが、ケンティフォリアや、ヨーロッパに広く自生している原種ロサ・アルベンシス(R. arvensis)の影響を感じ取っている研究者もいます。

デービット・オースチンはこのベル・イシスを交配親として最初のイングリッシュ・ローズ、コンスタンス・スプライ(Constans Spry)を育成し、その後、輝かしい名声と栄光を手に入れました。

コンスタンス・スプライ(Constans Spry)
コンスタンス・スプライ(Constans Spray)

品種名の由来~エジプト神話、イシスとホルス

イシスはエジプト神話に登場する女神です。よき妻、よき母として、また豊壌を象徴していることから、エジプトからギリシャ、ローマへ伝えられ信仰の対象となりました。

オシリスとセトは兄弟でしたが、セトは兄を殺害してしまいました。
オシリスの妹でかつ妻であったイシスはオシリスを魔術により復活させて冥界へ送るとともに、オシリスとの間の息子ホルスを育てあげました。成長したホルスは左目を失うという傷を負ったものの、激しい戦いの末に仇敵セトを打ち倒しました。

“Isis in papyrus swamp suckling Horus” Caption of “The Gods of the Egyptians Vol. II” [Public Domain via Wikimedia Commons]

ホルスはイシスに抱かれているときは幼児の姿ですが、成長した後は鷹の頭を持つ神として描かれています。エジプトの王ファラオはホルスの化身とされ、争いの際に失われた左目はホルスの目として、邪悪なものを除く魔除けとされました。

イシスが幼子ホルスに乳を与える像はローマで広く信仰をあつめ、それが時代を下って、聖母マリアと幼子イエスの像の原型になったと言われています。

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ダゲッソー(D’Aguesseau)https://ggrosarian.com/2024/11/07/%e3%83%80%e3%82%b2%e3%83%83%e3%82%bd%e3%83%bc%ef%bc%88daguesseau%ef%bc%89/Thu, 07 Nov 2024 02:09:04 +0000https://ggrosarian.com/?p=1730

40弁ほどの丸弁咲きとなる大輪花。花色はクリムゾンとなることが多いようですが、時に一季咲きのオールド・ローズのなかでは類稀れなミディアム・レッドの花色となることがあります。くすんだ葉色、120㎝から150㎝高さほどのシュ ... ]]>

どんなバラ?

40弁ほどの丸弁咲きとなる大輪花。花色はクリムゾンとなることが多いようですが、時に一季咲きのオールド・ローズのなかでは類稀れなミディアム・レッドの花色となることがあります。
くすんだ葉色、120㎝から150㎝高さほどのシュラブとなります。

市場へ提供された時期、命名の由来など

1836年、J.P. ヴィベールにより公表されたので、彼の育種とされることが多いのですが、ルイ・パルメンティエの圃場に保管されていた品種リストに記載されていることから、パルメンティエ圃場からヴィベールの手に渡ったのではないかと推察されます。(Francois Joyaux, “La Rose de France”)

アンリ・フランソワ・ダゲッソー(Henri François d’Aguesseau:1668-1751)にちなんで命名されというのが通説ですが、ヴィベールの孫にあたる、マルキス・ダゲッソー(Marquis d’Aguesseau)に捧げられたという説もあります。 (Stirling Macoboy, “The Ultimate Rose Book”)

アンリ・フランソワ・ダゲッソーは、代々フランス宮廷の法務官をしているダゲッソー家に生まれ、ルイ14世、15世など、重商主義により王家が巨万の富を得て繁栄していた時代に、ときに失脚して隠遁していた時期もあるものの、長きにわたって博識な法務官として、フランス法曹界に名を残した人物です。

ナポレオンの熱烈な信奉者であったヴィベールがこの品種を王家の法務官ダゲッソーに捧げたことには少々不可解な印象をいだきます。そうした意味ではマッコイが述べている孫の名をとったという説に説得力があるようにも思います。

ダゲッソーは、政争に敗れ、生まれ故郷リモージュに隠棲している時代、文献の研究などに加え、ガーデニングにも精出していたことが知られています。ヴィベールは、アンリ・フランソワのこうした”園芸”への貢献に敬意を表したのかもしれません。

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フェリシテ・パルメンティエ(Félicité Parmentier)https://ggrosarian.com/2024/11/06/%e3%83%95%e3%82%a7%e3%83%aa%e3%82%b7%e3%83%86%e3%83%bb%e3%83%91%e3%83%ab%e3%83%a1%e3%83%b3%e3%83%86%e3%82%a3%e3%82%a8%ef%bc%88felicite-parmentier%ef%bc%89/Wed, 06 Nov 2024 07:28:50 +0000https://ggrosarian.com/?p=1743

ロゼッタまたはクォーター咲き、熟成すると丸弁咲きの花形となります。ライト・ピンクの花色、花芯が色濃く染まり、緑のボタン目ができることが多い、息を呑むほどに美しい花です。さわやかに香り。楕円形の、縁のノコ目が強めに出る、蒼 ... ]]>

どんなバラ?

ロゼッタまたはクォーター咲き、熟成すると丸弁咲きの花形となります。
ライト・ピンクの花色、花芯が色濃く染まり、緑のボタン目ができることが多い、息を呑むほどに美しい花です。
さわやかに香り。
楕円形の、縁のノコ目が強めに出る、蒼みを帯びた深い色合のつや消し葉。細めながら固めの枝ぶり、120cmから180cm高さほどのシュラブとなります。どちらかと言えば大きく育つもの多いアルバの中では比較的小ぶりな樹形となります。


耐病性もあり、非常に育てやすいばかりではなく、美しい花形はアルバ・クラスの中では、ケニゲン・フォン・デンマークと頂点を競いあっていると感じています。すがすがしい印象を与えてくれる葉緑、形よくまとまる樹形など、完璧と言ってよい優れた品種のひとつです。

育種の経緯


ルイ・パルメンティエが1836年がに公表したとされています。当時の時代の常として、交配親の選別は厳密なものではなく、どのように育種されたかは不明のままです。

“Felicete”とは、”喜び”といった意味のフランス語ですが、女性のファースト・ネームで使われることもあります。
彼が育種したほとんどの新品種は1847年の彼の死去後に公表されることになります。蒐集したバラ、あるいは自ら育種した品種のほとんどすべてを自家薬籠中の物としていたパルメンティエですが、この品種への思い入れは特別のものがあったのでしょう。彼の生前に公表されたました。

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トリコロール・ド・フランドル(Tricolore de Flandre)https://ggrosarian.com/2024/11/05/%e3%83%88%e3%83%aa%e3%82%b3%e3%83%ad%e3%83%bc%e3%83%ab%e3%83%bb%e3%83%89%e3%83%bb%e3%83%95%e3%83%a9%e3%83%b3%e3%83%89%e3%83%ab%ef%bc%88tricolore-de-flandre%ef%bc%89/Tue, 05 Nov 2024 07:30:06 +0000https://ggrosarian.com/?p=1740

丸弁咲き、花色は淡いピンクにミディアム・ピンクの縞が入るストライプ。香りはわずか。明るいつや消し葉。90cmから150cm高さの比較的小さめのシュラブとなります。 1846年、ベルギーの園芸家ヴァン・ホウテによる園芸誌『 ... ]]>

どんなバラ?

丸弁咲き、花色は淡いピンクにミディアム・ピンクの縞が入るストライプ。
香りはわずか。
明るいつや消し葉。90cmから150cm高さの比較的小さめのシュラブとなります。

育種の経緯

1846年、ベルギーの園芸家ヴァン・ホウテによる園芸誌『ヨーロッパの温室/庭植え草花(Flore des serres et des jardins de l’Europe)』1846で紹介されたのが初出でした。
そのため長くヴァン・ホウテ作出のバラとされてきましたが、ヴァン・ホウテ自身は自ら育種を行うことはなかったことから、現在ではルイ・パルメンティエ作出の品種とされています。

花色に変化が出ることが多く、特に温暖な気候のもとでは色濃くなることが多いようです。J.P. ヴィベールは全体ににぶいパープルになると解説しています。

Rose Tricolore de Flandore
”Rose Tricolore de Flandore” from Flore des serres et des jardins de l’Europe 1846” [Public domain. The BHL considers that this work is no longer under copyright protection.]

トリコロール・ド・フランドルとは「フランドル(ベルギー北部)の色変わりバラ」といった意味です。フランドル地方には、ブリュッセル、アントワープ、ブルージュなど美しい街がある地方、ネロとパトラッシュの悲しい物語『フランダースの犬』の舞台でもあります。

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ロズ・ド・スヘルフハウト(Rose de Schelfhout)https://ggrosarian.com/2024/11/04/%e3%83%ad%e3%82%ba%e3%83%bb%e3%83%89%e3%83%bb%e3%82%b9%e3%83%98%e3%83%ab%e3%83%95%e3%83%8f%e3%82%a6%e3%83%88%ef%bc%88rose-de-schelfhout%ef%bc%89/Sun, 03 Nov 2024 23:59:54 +0000https://ggrosarian.com/?p=1737

小さめですが、カップ型・ロゼッタ咲きとなる花形は息を呑むほどの美しさです。大きな切れ込みのある萼片に包まれていたつぼみの可憐さも格別です。花色は淡いピンク、花弁の外縁はさらに淡く色抜けします。花芯に緑芽ができることもあり ... ]]>

どんなバラ?

小さめですが、カップ型・ロゼッタ咲きとなる花形は息を呑むほどの美しさです。大きな切れ込みのある萼片に包まれていたつぼみの可憐さも格別です。
花色は淡いピンク、花弁の外縁はさらに淡く色抜けします。花芯に緑芽ができることもあります。
細く固めの枝ぶり、中型、立ち性のシュラブ。

育種者はルイ・パルメンティエ。
花形、花色や明るい葉色など同じパルメンティエにより育種されたベル・イジスとよく似ていますが、ベル・イジスのほうが強いミルラ香に恵まれ、樹形もロズ・ド・シュルフトよりも大き目になります。

品種名の由来

アンドレアス・スヘルフハウト(Andreas Schelfout:1787-1870)にちなんで命名されたというのが大方の理解です。凛とした美しさは冬季の凍結した運河などを好んで描いたスヘルフハウトに相通じるものがあるようにも感じます。

“Skaters On A Frozen River” Painting/ Andreas Schelfhout, 19th century [Public Domain via. Wikipedia Commons])

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ナルキス・ド・サルヴァンディ(Narcisse de Salvandy)https://ggrosarian.com/2024/11/03/%e3%83%8a%e3%83%ab%e3%82%ad%e3%82%b9%e3%83%bb%e3%83%89%e3%83%bb%e3%82%b5%e3%83%ab%e3%83%b4%e3%82%a1%e3%83%b3%e3%83%87%e3%82%a3%ef%bc%88narcisse-de-salvandy%ef%bc%89/Sun, 03 Nov 2024 06:56:24 +0000https://ggrosarian.com/?p=1735
Photo/Krzysztof Ziarnek, Kenraiz [CC BY SA4.0 via Wikimedia Commons]

どんなバラ?

中輪または大輪、40弁ほどの丸弁咲き。
花色はチェリー・レッドまたはディープ・ピンク。古い記述によると花弁縁に白く色抜けするとのことです。
強い香り。
深い葉色の艶消し葉、120㎝から150㎝高さの、比較的小さなシュラブとなります。

育種の経緯と品種名の由来

育種者はパルメンティエですが、1843年、パルメンティエと親密な関係にあった園芸家ルイ・ヴァン・ホウテにより市場に提供されました。
19世紀初頭、ナポレオン没落後のフランス復古王制時に政治家として活躍した、ナルキス=アシル・サルヴァンディ(Narcisse-Achille de Salvandy:1795-1856)へささげられました。

花色の変異について

現在入手可能なナルキス・ド・サルヴァンディは上の画像のように、大輪、オープン・カップ型または丸弁咲き、花色はモーヴ(藤色)気味の深いピンクとなるものです。
しかし、ヴァン・ホウテが刊行した園芸誌『ヨーロッパの温室/庭植え草花(Flore des serres et des jardins de l’Europe )』1850によればディープ・ピンク/チェリー・レッドの花弁に白い覆輪が入る珍しい花色となっています。

ナルキス・ド・サルヴァンディ(Narcisse de Salvandy)
“Narcisse de Salvandy” Illustration/from “Flore des Serres et des Jardins de l’Europe” edited by Louis Benoit Van Houtte、1850 [Public Domain. The BHL considers that this work is no longer under copyright protection]

ジョワイオ教授の解説

オールドローズ研究の権威であるフランスのジョワイオ教授は著書『ラ・ロズ・ド・フランス(La Rose de France)』のなかで、本来の品種は”覆輪種”であろうと記述しています。教授の解説から少し引用してみましょう。

…この品種は、アンギャンの有名な育種家ルイ・パルメンティエによるもので、フランスの政治家で文部大臣を務め、アカデミー・フランセーズ会員でもあったサルヴァンディ伯爵(1795-1856)に捧げられたものだ…
園芸家ルイ・ヴァン・ホウテは…「花はかなり大きく、鮮やかな赤い花びらが6列から8列あり、全周にクリーム色の白い帯がある。この帯は花びらの中央まで伸び、基部で半分に切られていることがよくあり、中央に美しい黄色の雄しべが見える」と解説している。
1847年の競売時(訳注:パルメンティエの死去後)、彼のコレクションにはこの品種の標本がふたつしかなかった。ひとつはスイスの収集家 Escher-Zollikofer 氏に販売され、もう ひとつは Van Houtte 氏に販売された。この 2 番目の標本からこの品種が私たちの手に渡ることになったのだ…

オリジナルは失われてしまったか、または、枝接ぎを重ねているうちに先祖返りしてしまい、覆輪が失われてしまったと思われます。

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