どんなバラ?
9cmから12cm径となる大輪、丸弁咲あるいはロゼッタ咲き、花弁の数はケンティフォリア並みに多いですが花形は乱れがちです。
花色はくすみがちながら深みのあるピンク、花弁にピンクと白の細かな筋が入ることがあり、とても美しいです。
強い香り。
120cmから150cm高さの、ダマスクとしては少し小さめ。立ち性のシュラブとなります。花弁が密集する花形からケンティフォリアにクラス分けされることもありますが、葉や樹形にはダマスクの特徴が濃厚に出ることが多く、ダマスクにクラス分けされるのが適切のように思います。
小、中輪の花が多い、オールドローズの中にあって、比較的大きな花形となる美しい品種として知られています。”ア・フルール・ギガンテスク/A Fleurs Gigantesques(巨大花)”と呼ばれることもあるほどです。
育種者、育種年
交配親、育種された年も不明のままですが、この品種の由来にはいくつかの説があります。
ロイ・E. シェファード(Roy E. Shepherd)は孫引きなので確認できていませんが著作『バラの歴史(History of the Rose)』のなかで、この品種は1800年以前にすでに公表されていたと記述とのこと。
ジョワイヨ教授はアガタ・インカルナータと同じ品種なのでさらに古いはずとも。さらにバラ研究家のB・C・ディッカーソンはこの品種は17世紀にはすでに知られていたブラッシュ・ベルジックの別名だろうとも言っていて、育種者も育種年も定説はありません。
ダマスクローズの頂点にあるといってよい優れた品種(”Graham Stuart Thomas Rose Book”)です。
ナポレオンの2番目の妻の名を冠したこの品種は、皮肉なことに、最初の妻ジョゼフィーヌがマルメゾン館の庭園に集めたバラ品種のひとつだと言われています。
品種名マリー・ルイーズの由来
マリー・ルィーズ(Marie Louise:1791-1847)は、ナポレオン・ボナパルトがジョセフィーヌと離婚した後、皇妃として迎えたオーストリア皇帝フランツ1世の娘、ハプスブルグ家の王女です。フランス革命の渦中でギロチン刑に架せられたマリー・アントワネットは大叔母にあたります。

実は、ハプスブルグ家が皇帝として君臨するオーストリーはナポレオン率いるフランス軍に何度も蹂躙され、マリーはナポレオンを忌み嫌っていました。
ジョゼフィーヌとの間に子ができないため、自分の生殖能力には欠陥があるのではないかと悩んでいたナポレオン(ジョゼフィーヌには前夫との間に2子があった)ですが、愛人との間に私生児が誕生したことにより、名家の娘との間に子を設けて皇帝たる自分の子孫を残したいと思うようになりました。
そこでナポレオンは出自の低いジョゼフィーヌを離縁し、ハプスブルグ家のマリー・ルイーズと婚儀をむすぶことにしました。この結婚は幾度も戦いを繰り広げたハプスブルグ家との間の和議をもくろんだ、政略結婚そのものでした。
婚儀が定められたときマリーは泣き暮らしたと伝えられています。しかし、結婚直後は、ナポレオンがマリー・ルイーズに穏やかに接したことから、フランスでの生活は平穏であり、嫡子ナポレオン2世にも恵まれました。
しかし、連戦連勝を重ね、無敵を誇ったナポレオンもロシア遠征で致命的な敗北を喫するなど、敵対するヨーロッパ諸国同盟に追われるようになり退位を余技なくされます。マリーはナポレオンがエルベ島へ流刑となった後はウィーンへ戻り、ナイベルグ伯と密通して娘を産むなどナポレオンとは疎遠になってしまいました。
ナポレオンが懇願し続けたにもかかわらず、マリー・ルイーズはエルベ島へ駆けつけることもありませんでした。ナポレオンがエルベ島を脱出し、パリへ向かっているという知らせを聞いたときには仰天して、「またヨーロッパの平和が危険にさらされる」と言ったと伝えられています。(”Wikipedia”など)
政略結婚であったにせよ、また、密通などにはかなり寛容な時代風潮があったにせよ、”英雄”ナポレオンン・ボナパルトの”不実”な妻という悪名を後々まで残すことになってしまったのはある意味では気の毒なことだと言えるかもしれません。