バラ、特にオールドローズが好きで名前の由来や育種の経緯などを調べています。
宿根草や葉色が美しい草花や灌木などをアレンジしたバラ咲く庭を愛でるのも長年の夢です。

ヌーベル・ピヴォワーヌ(Nouvelle Pivoine)

ヌーヴェル・ピヴォワーヌ(Nouvelle Pivoine)

どんなバラ?

11㎝から13㎝径、26から40弁ほどの大輪のロゼッタ咲き。しばしば花芯に緑芽が生じます。
ミディアム・ピンクにパープリッシュな色合いを加えた落ち着きのある花色。花弁縁は色抜けして淡い色合いへと変化し、おもむきのあるグラデーションとなります。
強い香り。
深い色合いのつや消し葉、120㎝から180㎝高さほどの中型のシュラブ。
”新しい芍薬”という名を冠した一季咲きのガリカです。明るい花色のため、ガリカのサブ・クラスであるアガサ/アガタ(Agatha)とされることもあります。

育種者、育種年など

現在、受け入れられている解釈
ドイツのシュヴァルツコフ(Daniel August Schwarzkopf)により育種されました。1806年には市場に出まわっていたことが文献から知られていますが正確な育成年は不詳のままです。
交配親の詳細も不詳のままです。
公表当初は’グラン・トリオンフ(Grand Triomph)’という品種名でしたが、1814年ころからヌベル・ピヴォワーヌ(新しい芍薬)と改名され、それが今日まで正式品種名として伝えられています。

なぜ?品種名変更
’グラン・トリオンフ’とは、「偉大な勝利」という意味です。
この品種が世にでたのが1806年だったとすると、「偉大な勝利」という品種名が象徴しているのは、1805年12月、皇帝ナポレオンがアウステルリッツ(現チェコ領)においてオーストリーおよびロシア帝国連合軍と会戦し勝利したことではないかと思いました。
公表後、花弁縁が色抜けするミディアム・ピンクの花要が芍薬の花によく似ていることから’ヌーベル・ピヴォワーヌ(新しい芍薬)’のほうがふさわしいとされるようになったのではないかと推測します。

育種者、年などの現在説の根拠

1806年に刊行された『Verzeichniss sämmtlicher Bäume und Sträucher in den Grossherzoglich-Badischen Gärten(大バーデン大公庭園のすべての樹木と低木のリスト)』のなかにシュワツコフが育種したバラと思われるバラのリストがあり、そのなかのひとつにグラン・トリオンフ(Grand Triomph;ヌーベル・ピヴォワーヌの旧名)がある。

1815年、ボタニカル・アーティストであるサルモン・ピナス(Salomon Pinhas)はバラのイラスト集『Rosen-Sammlung zu Wilhelmshöhe(ヴィルヘルムショーンにのバラコレクション)』にグラン・トリオンフを掲載している。

1805年、アウステルリッツの戦い

1805年12月2日、オーストリア領モラヴィナのアウステルリッツにおいて、ナポレオン率いるフランス軍73,000名と、オーストリア、ロシア両帝国連合軍84,000名が会戦し、夕刻までに、連合軍は15,000人の死傷者と多数の捕虜を出し、散り散りになって敗走し、会戦はフランス軍の圧勝となりました。勝利したフランス軍の死傷者も8,233名に上りました。

‘The Battle of Austerlitz, 2nd December 1805’ Painted by François Gérard [Public Domain via Wikimedia Commons]

この戦いにおいてはフランス、オーストリア、ロシアの皇帝が参戦したことから三帝会戦と呼ばれることもあります。
敗れたオーストリアは巨額の賠償金に加え、バイエルン、イタリアなどの領地の割譲を強いられ、ロシア軍もヨーロッパからの撤退を余儀なくされる結果となりました。

パリの代表的な観光地であるエトワール凱旋門はこの勝利を記念して古くからあった門を改築したものです。改築は大勝利の興奮冷めやらぬ1806年にナポレオンの命により開始されましたが、完成は1836年で、すでにナポレオンの時代ではありませんでした。(以上、Wikipedia等を閲覧)