どんな人物、経歴
バラ育種の黎明期、ドイツで活躍したのがダニエル・A・シュワルツコフ(Daniel August Schwarzkopf:1737-1817 )です。
シュワルツコフは、1737年、ドイツのハレ/ザーレ(Halle/Saale)近郊の小さな村オストラウ(Ostrau)で生まれました。ハレ/ザーレンは、18世紀当時、神聖ローマ帝国領でしたが、ナポレオン戦争時代にはフランス領となったり、また神聖ローマ帝国に復帰するなど政争の荒波に翻弄された地域です。
シュワルツコフの父も庭師であり、ダニエルも地元の学校で初等教育を受けたのち父の元で生業を手伝い、 ヴォルフェンビュッテル(Wolfenbüttel)や ヘレンハウゼン(Herrenhausen)などでも修行を積みました。
1757年、19歳のときシューレンブルグ伯爵家のガーデナーとなり、さらにオランダ、英国でも修行を重ねました。
1766年(28歳)、ヴァイセンシュタイン城(Schloss Weißenstein )の庭園丁に就任し、当時流行していた中国式庭園の設計・施工にたずさわりました。

バラの育種をはじめたのは1773年ころと推定されます。150種を超える品種のコレクションを誇り、下記で述べるような新品種の育種も行いました。
1817年に死去。
(https://architekturzeichnungen.museum-kassel.de/0/35249/ 2024.03.28閲覧、一部略記)
バラ育種史に残した功績
18世紀末のバラ育種を取り巻く環境
ヨーロッパにおいて、バラは十字軍の帰郷時など非常に古い時代に中東からもたらされ、花の美しさは愛でられてはいましたが、長い間、香料の原料としてのダマスク、薬剤としてのガリカ・オフィキナリスなどおもに実用的な用途に利用されていました。
しかし、18世紀末、ケンティフォリアなどの美しいバラが、低地地方と呼ばれたオランダやベルギーからフランスへもたらされ、上流階級のサロンでもてはやされるようになり、バラはようやく園芸植物として注目され始めました。
シュワツコフのバラ育種は時代を先駆けており、現在までに判明している範囲では、文字通り”最初のバラ育種家”として賞賛されるべき存在です。
時代に残したシュヴァルツコフの業績
1785年ころ、ヴァイセンシュタインには150 種におよぶバラが植栽されており、当時のヨーロッパ最大のバラのコレクションであったと言っても過言ではありません。
1783年に刊行された『Verzeichnis des Landschaftsparks von Schönbusch(ショーンブッシュ公園における植栽リスト)』の中に庭園丁であったクリスチャン・フランツ・ボード(Christian Franz Bode)」が作成した106種にわたるバラ・リストがありますが、その中にシュワツコフが育種したと思われるものが数多く含まれています。
これらのバラはオランダとフランスの苗木カタログに掲載され、育種者が明記されずに、あるいは後の時代に活躍する育種家の名を冠して流通することとなりました。
また、1815年、ボタニカル・アーティストであるサルモン・ピナス(Salomon Pinhas)が刊行したバラのイラスト集『Rosen-Sammlung zu Wilhelmshöhe(ヴィルヘルムショーンにのバラコレクション)』にはシュワツコフが育種したと思われるバラが数多く掲載されており、現在は、前資料と照合してシュワツコフ育種品の同定に利用されています。
育種した主な品種
今日、シュワツコフにより育種された品種のうち、比較的知られていて入手可能なものをリストアップしました。
おおくの品種はガリカにクラス分けされていますが、花色の変化を求めたのでしょう、ケンティフォリアやアルバとの交配を試みた形跡があります。
詳細は個別ページでご覧ください。
- ペルル・フォン・ヴァイセンシュタイン(Perle von Weissenstein) – 1773年
- エマーブル・ルージュ(Aimable Rouge) – 1783年
- ベル・サン・フラットリ―(Belle sans flatterie) – 1783年
- マントー・プルプル(Manteau Pourpre) – 1783年
- ソレイユ・ブリヨン(Soleil Brillant) – 1783年
- ヌーベル・ピヴォワーヌ(Nouvelle Pivoine) – 1806年
- プルプル・シャルマン(Pourpre Charmant) – 1806年
- レーヌ・デ・サンフューユ(Reine des Centfeuilles) – 1808年