バラ、特にオールドローズが好きで名前の由来や育種の経緯などを調べています。
宿根草や葉色が美しい草花や灌木などをアレンジしたバラ咲く庭を愛でるのも長年の夢です。

黎明期のバラ育種家~ジャック=ルイ・デスメ(Jacques-Louis Descemet )

どんな人物、経歴

幼少期からパリ郊外に園芸農場を開くまで

フランスにおいて最初に本格的にバラ育種に取り組んだのが、ジャック=ルイ・デスメ(Jacques-Louis Descemet:1761-1839 )だったと言われています。

デスメは1761年パリに生まれました。生家は16世紀から続く薬草園ジャルダン・デ・ザポティケール(Jardin des Apothicaires;‘薬剤師の庭’)を代々管理していました。
1793年、フランス革命の嵐は止むことなく吹きつのっていました。1月には国王ルイ16世、10月には王妃マリー・アントワネットが刑死、パリには革命裁判所が設置され、反革命の烙印を押された政治犯たちがつぎつぎにギロチンに科刑されていた時代でした。
この年、デスメは薬草園を売却し、パリ北東郊外のサン=ドニ(Saint-Denis)に農場を開設しました。32歳のころです。

‘1914年ころのサン=ドニの園芸農場’ [Public Domain via. Wikipedia Commons]

フランス最初のバラ育種家として

1804年、共和制の擁護者として登場した英雄ナポレオンは、次第に皇位に就こうという野心にとらわれるようになりました。その年の末には国民の賛同を得て、皇帝として絢爛たる戴冠式を催すことになります。

デスメはこのころ41歳、バラ栽培に取り組むようになりました。また、政治活動にも熱心で、1809年にはサン=ドニの市議会議員となり、1812年から1814年は市長をも務めあげました。

デスメはまた名高いジョゼフィーヌのバラ・コレクションのために、パリや近郊で活動していたヴィルモラナンドルー(Vilmorin-Andrieux)、デュポン(Andre Du Pont)やコドフロワ(Codfroy)とともに多くの品種を提供したと言われています。
デュポンなどはバラ研究家として高名でしたが育種は行っていませんでした。デスメこそフランスにおける先駆的な、事実上、最初のバラ育種者であったと評されています。

時代の流れに翻弄され、ついに亡命

1815年は常勝をほこった皇帝ナポレオンがついにプロシャ、ロシア、イギリスなどの対仏同盟軍に敗れ、権力の座から転げ落ちた時代でした。退位してエルバ島へ追放されたナポレオン1世は、同年、パリへ舞い戻って再び皇位に就きましたが、ワーテルローにおいてイギリス・プロシャ連合軍に決定的な敗北を喫し、再び退位を余儀なくされました。(百日天下)
百日天下の前、からくもパリから逃れていたルイ18世は再びパリへ戻り、同盟軍の支援のもと再び王位に就きました。

このとき、サンドニのデスメ農場は侵攻したイギリス軍によって蹂躙されてしまいました。また、デスメ自身も進歩的な政治思想を信奉していたことが影響したのか(当時先鋭的な政治思想家たちの集まりだったフリー・メイソンのメンバーだった)、復古王制政府から国外追放に処せられてしまいました。
パリを追放されたデスメはロシア帝国、黒海沿岸の港湾都市オデッサ(現ウクライナ)へと亡命しました。同地で1820年に開設された植物園の管理にたずさわるようになり、1839年、同地で没するまで従事しました。(享年78歳)

バラ育種史に残したデスメの功績

資産、資料を譲渡されたヴィベールから知るデスメ育種のバラ

1815年、デスメが保持していた交配種、ノートなどの主な資材・資料は、パリで園芸店を営んでいたJ-P ヴィベール(Jean-Pierre Vibert)へ譲渡されました。それらは、バラ交配に関するノートと実株コレクション250種であったと伝えられています。

バラ250種のうち3分の2(160から170種)はデスメが交配を行ったオリジナルだったとのこと。
別名をつけて市場へ提供されたものも中にはあったようですが、ヴィベールはデスメに恩義を深く感じていたのでしょう、1820年から数年おきに発行していたバラ解説書『バラの命名とクラス分けに関する考察(Observations sur la Nomenclature et le Classement des Roses)』のなかで”D”とマークしてデスメの作出品種としています。

育種した主な品種

今日、デスメにより育種された品種のうち、比較的知られていて入手可能なものをリストアップしました。
詳細は個別ページでご覧ください。