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バラ、特にオールドローズが好きで名前の由来や育種の経緯などを調べています。
宿根草や葉色が美しい草花や灌木などをアレンジしたバラ咲く庭を愛でるのも長年の夢です。

ジョゼフィーヌ~バラを愛したナポレオン皇妃

ジョゼフィーヌ~バラを愛したナポレオン皇妃

ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ(Josephine de Beauharnais:1763-1814)は、ナポレオン・ボナパルトの最初の妻として、またバラの収集家として永遠に名を残すことになった女性です。

ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ(Josephine de Beauharnais:1763-1814)
Painting/ François Gérard [Public Domain via. Wikipedia Commons]

ナポレオン・ボナパルトは実はジョゼフィーヌと出会う前、すでに兄嫁の妹デジレ・クラリー( Desiree Clary)と婚約していました。しかし、パリで蜂起した王党派市民を榴弾砲で一掃し、軍人として名を挙げたナポレオンはその婚約を反故にして貴族の未亡人であったジョゼフィーヌ・ド・ボアルネと結婚しました。
ジョゼフィーヌはナポレオンより6歳年上、すでに前夫との間にウジェンヌ(後のイタリア副王)とオルタンス(ナポレオン3世の母)という一男一女をもうけていました。

ナポレオン・ボナパルトとジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ

18世紀のフランスは革命による混迷の渦のなかにありました。英国、オーストリア、プロシアなど王制下にある諸国はフランスの共和制の打倒をはかっていましたし、国内でも革命派、王党派の内乱が続いていました。

ナポレオンの登場~ヴァンデミエールの叛乱

革命暦ヴァンデミエール(“葡萄月”:今日の9月から10月)、王党派は革命政府の転覆をはかり、武装してパリ市街地サントノレ通り(rue Saint-Honoré)に集結していました。
この反乱はヴァンデミエールの叛乱と呼ばれていますが、この反乱をみごとに鎮圧したのが若きナポレオンでした。

ヴァンデミエールの反乱。サントノレ通りのサン=ロック教会界隈
”ヴァンデミエールの反乱。サントノレ通りのサン=ロック教会界隈 ” [Public Domain via. Wikipedia Commons]

ナポレオンは、野戦砲に榴弾を込めて砲撃し武装王党派に対しを一蹴しました。市街地で市民に向け野戦砲を使用するということは当時考えられない戦術だったようです。ナポレオンはその功績から「ヴァンデミエール将軍」と讃えられ、このフランスの危機的状況に際して急速に頭角を現してゆくこととなりました。この後、ナポレオンは敵軍の弱点をするどく衝く柔軟な発想と適材を有効的に配置し効果をあげるという緻密さと慧眼とで、次々と戦功を上げてゆくことになります。

将軍ナポレオンと新妻ジョゼフィーヌ

1796年、ナポレオンは、ミラノ方面からウィーン郊外まで敗走するオーストリア軍を追い詰めて屈服させ、翌年凱旋帰国。さらに1798年にはイギリスの制海権を牽制する戦略を立てエジプトへ出兵するなど激務の中にありました。こうした繁忙の中にあったのですが、ナポレオンは、同年パリ郊外のマルメゾン館を購入しました。ナポレオンの新妻ジョゼフィーヌは館でナポレオンの帰国を待つこととなりました。

しかし、ナポレオンと結婚する前、社交界で浮名を流していたジョゼフィーヌのことです、パリ郊外での平穏な日常には飽き足らなかったのでしょうか、つつましやかに夫の帰りを待っていたわけではなく、絵画や宝石の槐集に精をだすようになります。美男の陸軍将校イポリット・シャルルとの不倫が取り沙汰されたのもこの頃のことです。

マルメゾン館におけるバラ蒐集

マルメゾン館
“Schloß Malmaison” Illustration/ [Public Domain via Wikimedia Commons]

ジョゼフィーヌはもとマリー・ジョゼフ・ローズ(Marie Josephine Rose)という名前だったこともあってか、マルメゾン館を囲む庭造りに情熱を燃やすようになります。

敵国スコットランド人でありながら、当時パリでガーデン・デザイナーとして名声を博していたトーマス・ブレーキー(Thomas Blaikie)に庭造りをさせ、やはり敵国アイルランド人でロンドン郊外のハマースミスで農場を経営していたジョン・ケネディ(John Kennedy)には珍種の草花を納入させたという記録が残されています。

英仏間が戦争状態であった時期であるにもかかわらず、ケネディは両国間を自由に行き来できるパスポートを持っており、英国からバラ苗などをマルメゾンへ運びました。

そうした業者や協力者のなかでも、特にフランス人園芸研究家であったアンドレ・デュポン(Andre Dupont)にバラの収集を命じるころから、ジョゼフィーヌは憑かれたようにバラの収集に熱中するようになります。ジョゼフィーヌのバラ・コレクション熱は尋常のものではなく、当時の著面な園芸研究家、ガーデン・デザイナー、庭師などを雇い入れ、さらに外交官や軍人にまで、貴重品種の槐集を依頼するほどのものでした。

1804年から1814年、ジョゼフィーヌが死去するまでの十年間に収集された品種は250種ほど、以下のリストのようなものだったと言われています。(”The Complete Book of Roses”, Gerd Krusmann, 1981)

  • ガリカ、167種
  • ケンティフォリア、27種
  • モス・ローズ、3種
  • ダマスク、9種
  • チャイナ、22種
  • ピンピネリフォリア、4種
  • アルバ、8種
  • フォエティダ、3種
  • 原種あるいは原種交雑種であるムスク・ローズ、ロサ・アルピナ、ロサ・バンクシアエ(モッコウバラ)、ロサ・ラエヴィガータ(難波イバラ)、ロサ・ルブリフォリア、ロサ・ルゴサ(ハマナス)、ロサ・センペルヴィレンス、ロサ・セティゲラ

このコレクションは当時入手可能な品種ほとんどすべてを集めたものと言ってよいほど徹底したものでした。
ジョゼフィーヌのもとで収集を行ったバラ農場主たちは、後にこのコレクションを交配親として次々と新たな品種を生み出すこととなります。

19世紀中葉から末にかけて、フランスはバラ育種の中心地として繁栄し、それが次第に他のヨーロッパ各国に伝わってゆくことになります。そして、バラが”花の女王”としての地位を確立するにあたって、ジョゼフィーヌによってその礎が築かれたと言ってよいでしょう。

離婚、ジョゼフィーヌの死去そしてナポレオンの流刑

ナポレオンは1802年には仏政府終身統領となってからは独裁色を強め、さらに1804年には皇帝の位へと昇りつめます。しかし、ジョゼフィーヌが前夫との間に二人の子供をもうけていたにもかかわらず、ナポレオンとの間には子供ができませんでした。
ナポレオン自身は、子ができない責は自分にあると考え、悩んでいたようですが、愛人であったポーランドのマリア・ヴァレフスカ(Maria Walewska)との間に庶子が生まれたことなどから自分の能力に確信をもち、皇位を嗣ぐ子供の誕生を強く望むようになりました。

そして、子を産むことができないという理由という屁理屈のもと、1809年にジョゼフィーヌを離縁してしまいます。当時のフランスは男女間の情交には寛容な風潮があり、王侯や貴族の間にはさまざまなスキャンダルがありました。しかし、ナポレオンは後ろめたい気持ちにさいなまれたのでしょう、離婚後もジョゼフィーヌに皇妃としてマルメゾン宮に住まうことを許しました。離婚の後もジョゼフィーヌは惜しむことなくバラのコレクションを続けることになります。

しかし、隆盛を誇ったナポレオンもやがてプロイセン、オーストリア、イギリスなど対仏同盟軍に屈し、1814年退位、エルバ島の小領主として追放されました。(同年、ジョゼフィーヌも亡くなり、館は息子のウジェンヌが相続しました。さらに、幾人かの所有者の間を転々としてゆくこととなりました)

ナポレオンは1815年にはエルバ島を脱して軍を集めながらパリへ入城し、ふたたび皇帝へ就きました。しかし、ワーテルローの戦いで致命的な敗北を喫して再び退位を強いられてしまいました。(“百日天下”)

マルメゾン館を背景とするナポレオン
Painting/anonymous [Public Domain via Wikimedia Commons]

ナポレオンは敗北の後マルメゾン宮殿にしばし滞在し、今は亡きジョゼフィーヌが手塩にかけたバラ園を散策しながら、アメリカあるいはメキシコへ亡命し再起の可能性をさぐったと言われています。時は6月半ば、まだバラが咲き残っていたのではないかと思います。(『ナポレオン―英雄の野望と苦悩』、エミール・ルートヴィヒ、1926)

1870年、普仏戦争が勃発。プロイセン軍はパリへ向けて侵攻を続けました。その際マルメゾン館はプロイセン軍の駐屯地として徴用され、庭園は壊滅的なダメージを受けてしまい名高いバラ園もこのとき失われとと言われています。

今日、マルメゾン館ではバラ園を見学することができますが、そのバラ園は当時のものとは造営も異なり、植栽されている品種も当時とは違うものです。

ジョゼフィーヌ・バラ・コレクションの再現の試み

Jジュール・グラヴロー(Jules Gravereaux)
Painting/unknown [CC BY SA-3.0 via Wikimedia Commons]

20世紀初頭、パリ近郊にバラ園ロザリー・ド・レイを開いたことで名高い、ジュール・グラヴロー(Jules Gravereaux)は画家ルドーテが描いたバラ図譜などを参考にして、旧マルメゾン庭園に植栽されていた品種の再槐集をこころみました。
250種といわれた品種のうち、197種のリストが作成されました。参照する資料に限界があったためか、作成されたリストは同一品種を別名称で載せていると思われるなど、正確性に欠ける点もありましたが、どんな品種が庭園で栽培されているかの概要は判断できるものです。
リストに上げられた品種名は、かならずしも今日まで伝えられているものと一致しないため特定がむずかしいものありますが70種近くはよく見ることができる品種です。

今日でも広く栽培されている品種をご紹介しましょう。詳細は個別ページをご照覧ください。

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