google-site-verification=CxQ45yfpUGyC9m-Gh3FxLnXPl2xSu8LaT7VqPsx9Py0pub-1741325905445363

バラ、特にオールドローズ、ランブラーが好きです。
品種名の由来や込められた思い、あるいは背景となった物語、
また、育種者が生きた時代などへの想像をふくらませる作業などを続けています。
バラと宿根草や、葉色が美しいリーフプランツや灌木などを配置したコテージガーデンの作庭も夢見ています。

コント・ド・シャンボール(Comte de Chambord)- damask perpetual

コント・ド・シャンボール(Comte de Chambord)

コント・ド・シャンボール(Comte de Chambord)- damask perpetual

どんなバラ?

9cmから11cm径、カップ型・クォーター咲きとなります。優雅な花形に花弁がぎっしりと詰まり、いかにもオールドローズらしい花形。
淡いピンクに色づいていたつぼみは開くとクリーム色となったり、中心部がピンクに染まったりします。中心に緑芽ができることが多く、オールドローズの美しさを満喫することができます。
甘い、強いダマスク系の香り。
楕円形の、明るい色合のつや消し葉。高さ120cmから180cmの立ち性のシュラブとなりますが、枝ぶりが細いので、花の重みで枝はアーチを描きます。

育種者、育種の経緯など

1860年、フランスのロベール・エ・モロー(Robert et Moreau)により、以下のような交配により育種・公表されたというのが通説です。

種親:ピンクのHP、バロネ・プレヴォ(Baronne Prévost)
花粉:ダマスク・パーペチュアル(DP)のダッチェス・オブ・ポートランド(Duchess of Portland)

バロネ・プレヴォ(Baronne Prévost)
バロネ・プレヴォ(Baronne Prévost)
ダッチェス・オブ・ポートランド(Duchess of Portland)
ダッチェス・オブ・ポートランド(Duchess of Portland)

コント・ド・シャンボールは、花色、花形、香りなどばかりではなく、葉色、樹形など多くを種親のバロネ・プレヴォから受け継いでおり、赤花または濃いピンクの花を咲かせるダッチェス・オブ・ポートランドの特徴はあまり見出すことはできません。

しかし、この品種には下記のような取り違い説が濃厚ですので特定を留保するべきかと思います。

取り違え?よく似た品種がふたつあります

このコント・ド・シャンボールに酷似している、いや、同じ品種だと言われる品種がふたつあります。

マダム・ボール(Mme. Boll)
マダム・ボール(Mme. Boll)
マダム・クノール(Mme. Knorr)
マダム・クノール(Mme. Knorr)

マダム・ボール(Mme. Boll)

アメリカのダニエル・ボール(Daniel Boll)が1859年に育種し、夫人に捧げました。

いずれかのHPとピンクのダマスク、ベル・ファベール(Belle Fabert)との交配により育種されたと言う説が有力ですが、ピンクのHP、バロネ・プレヴォ(Baronne Prévost)とダマスク・パーペチュアルの元品種、デュセス・オブ・ポートランド(Duchesse of Portland)との交配によるという異説もあります。

後者の組み合わせ交配は、お気づきかもしれませんがコント・ド・シャンボールと同じであるため、今日コント・ド・シャンボールとして流通している品種は実際にはマダム・ボールではないかという説(B.C. Dickerson 等)があり、次第に有力になりつつあるようです。
また、マダム・クノール(Mme. Knorr)もよく似た品種であるため、これも同じ品種ではないかとい言われています。

コント・ド・シャンボール~ブルボン王家の血統にある伯爵

“Henri d’Artois’, comte de Chambord” Painting/ Adeodato Malatesta [Public Domain via. Wikipedia Commons]

シャンボール伯爵(Henri Charles Ferdinand Marie Dieudonne d’Artois, Comte de Chambord:1820-1883)は復古王政時のフランス王シャルル十世の孫にあたります。

王政、共和制とめまぐるしく変転する19世紀フランス政界にあって、ブルボン家の家督を継ぐ者として王政復古派のシンボルに祭り上げられた人物です。この品種が捧げられたときはフランス国内にはおらず亡命中でした。

この品種が伯爵に捧げられた後のことになりますが、シャンボール伯爵は歴史的な事件の当事者として登場します。

1870年:
フランスは当時皇帝ナポレオン3世の統治下で、プロシャとの間に戦争(普仏戦争)が勃発していました。
ナポレオン3世は、宰相ビスマルクが率いるプロシャとの戦闘に自ら出陣しましたが、捕虜となってしまうなど屈辱的な敗北を喫し、同年、退位を余儀なくされました。3世は英国へ亡命。
1873年:
フランスは帝政から王政復古をめざしました。シャンボール伯爵は王政復古派のシンボルとされ、王位へ就く寸前までゆくことになります。

王として議会へ導き入れられ、議員たちからも賛同の拍手をもって迎え入れられました。しかし、フランス革命の象徴である三色旗(青=自由、白=平等、赤=博愛)の承認を求められたことに対し、白色旗(ブルボン家の白百合の紋章)に固執し承認を拒絶したことから議員の失望を買い、最終的には王位へ就くことはありませんでした。

シャンボール伯は1883年に死去。
伯爵には嫡子がなく、彼が死去したことにより、ついにブルボン家は絶えました。これにより、王政復古派のもくろみはその根拠を失いました。

また、彼の死の4年前、1879年、ナポレオン3世の嫡子ナポレオン・ウジェーヌ・ルイ・ボナパルト(ナポレオン4世)も英国軍士官として参戦したルーズ―戦争の前線で戦死してしまい、ナポレオン血統による政権復活をもくろんでいたボナパルティストたちの希望も潰えていました。

フランスを独裁的に支配していた王統ブルボンと皇帝ナポレオンの血統はともに潰え、フランスはそれから後、今日にいたるまで共和制のもとにあります。

当サイト内の文章・画像等の無断転載及び複製等の行為は禁じます。
Unauthorized copying and replication of the contents of this site, text and images are strictly prohibited.

RSS
Follow by Email
X (Twitter)
Post on X
Instagram
FbMessenger
URL has been copied successfully!