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バラ、特にオールドローズ、ランブラーが好きです。
品種名の由来や込められた思い、あるいは背景となった物語、
また、育種者が生きた時代などへの想像をふくらませる作業などを続けています。
バラと宿根草や、葉色が美しいリーフプランツや灌木などを配置したコテージガーデンの作庭も夢見ています。

デュセス・ド・モントベロ(Duchesse de Montbello)- gallica

デュセス・ド・モントベロ(Duchessee de Montbello)

デュセス・ド・モントベロ(Duchesse de Montbello)- gallica

どんなバラ?

6cmから9cm径、花弁がぎっしり詰まった感のあるロゼッタ咲き。花弁が完全には開ききらず、花芯にボタンアイができることがあります。
淡いピンクとなる花色。中心部はわずかに色濃く染まることが多いと思います。強い香り。
120cmから150cm高さ、立ち性、小さめなシュラブとなります。くすんだ葉色は花がない季節でも庭に落ち着いた雰囲気をかもし出してくれます。庭でいち早く開花する品種として、古くから愛されてきました。

育種者、育種年など

フランスの園芸家ルイ・クロード・ノワゼット(Louis Claude Noisette)が1825年から1827年にかけて刊行した大著『完全園芸マニュアル(Manuel complet du Jardinier)』第4巻、第2部のなかで、
「ベンガルローズ…モンテベロ公爵夫人…この品種は一季咲きです。ほとんどがインディカ種、センペルフローレンス種、シネンシス種の交配種です」という短評を添えて紹介したのが文献上の初見です。このことから、デュセス・ド・モントベロの育種年は1824年とされています。
数年後の文献で、育種者はジャン・ラッフェイ(Jean Laffay)であると明らかにされるようになりました。

今日、この品種はガリカにクラス分けされることが一般的ですが、初期の文献やカタログにはこの品種はベンガル/チャイナローズの交配種であるという解説されていたため、混乱を招くこととなりました。

古い記述では、熟成すると花色は濃色へと変化してゆくとしている例があります。この性質はチャイナローズに特徴的なものです。そんな性質からチャイナへとクラス分けしたのかもしれません。しかし、現在、わたし達が見ることができるデュセス・ド・モントベロは濃色へ変化することはありません。そのことから、ラッフェイが公表した品種は、今日この名前で呼ばれている品種とは異なるものであったという説があります。

現存するモントベロについて、
「いやいや、ガリカだ」とピーター・ビールズ氏は言いますし(“Peter Beales Roses”, 1982)、
「ガリカよりアルバに近い」と言うのはゲルト・クルスマン( Gerd Krüssmann, “The Complete Book of Roses”, 1981)です。
「ケンティフォリアとされることもあるぞ!」と驚いているのがジョワイオ教授です。(Francois Joyaux ,”La Rose de France”, 1998)

ガリカの特徴がいちばん濃厚に出ていると思われますので、ここではガリカの一品種としましたが、開花している様子を愛でながら、
「あなたはどこから来たの?」と尋ねてみたらいかがでしょうか。

モントベロ公爵と公爵夫人

この品種は、ナポレンのもとで戦功があり、モントベロ公に叙せられたランヌ元帥(Jean Lannes, Duc de Montebello:1782-1856)の夫人にささげられました。美貌をうたわれた夫人にふさわしい美しい花です。

ランヌ元帥(Jean  Lannes, Duc de Montebello:1782-1856)
Painting/Jean-Baptiste Paulin Guérin [Public Domain via Wikimedia Commons]

モントベロ公爵の人生はフランス革命からナポレオン戦争という激動の時代を駆け抜けた男にふさわしい波乱に富んだものでした。

革命前夜、染物師の徒弟だった若きジャン・ランヌ(Jean Lannes:1769-1809)は1784年7月14日、市民階級によるバスチーユ牢獄襲撃によりフランス革命が勃発するとすぐに国民衛兵隊という市民軍に加わりました。15歳ころのことです。勇敢さゆえに昇進をかさね、少佐に昇進しましたが、上官とのいさかいから退役してしまいました。しかし、ナポレオンが指揮するイタリア遠征に一兵卒として参戦すると、その勇猛さからすぐに軍曹にまで昇進しました。

元少佐の軍曹がいるという話を耳にしたナポレオンはジャン・レンヌを呼び出して話を聴くと、ただちに取り立て、元の少佐に戻しました。

1796年、北イタリア、アルコレ橋をめぐって行われたオーストリア軍との争奪戦においては負傷を重ねながらも常に先頭に立って戦い、ナポレオンを感激させたと言われています。

1798年、エジプト遠征においては師団長として従軍。

1800年、モントベロの戦いでの戦功により中将に昇進、モントベロ公爵の称号を与えられました。

同年、ランヌはポレオンの二番目の皇妃であるマリー・ルイーズの女官長であったルイーズ・アントワネット(Louise Antoinette, Comtesse de Guéheneuc)と結婚しました。前妻とは離婚しており、2度目の結婚でした。

モントベロ公爵夫人(Louise Antoinette Lannes, Duchess of Montebello :1782 - 1856)
Painting/Pierre-Paul Prud’hon

この女性がこの品種をささげられたモントベロ公爵夫人(Louise Antoinette Lannes, Duchess of Montebello :1782 – 1856)です。

夫婦仲は良好だったようです。子宝にめぐまれ、ふたりには4人の息子とひとりの娘が生まれました。長男にはルイーズ=ナポレオン、末の娘にはジョゼフィーヌ=ルイーズと命名したのはご愛敬というところでしょうか。

1808年、ナポレオンとともに参戦したドナウ河畔でのアスペルン・エスリンクの戦いではカール大帝が率いるオーストリア軍に敗れてしまいました。退却の際しんがりをつとめたランヌは追撃するオーストリア軍と激しい戦闘を続けていましたが、砲弾により右足を負傷、切断手術をうけ回復への望みが得られたものの、九日ほど後、この負傷がもとで死去しました。ナポレオンは彼にすがって涙を流したと言われています。公爵夫人が変わり果てた夫と再会したときの記述が残されています。

「…彼女は棺に近づき、ゆっくりと回りを歩み、立ち止まって組んだ手を下ろし、息絶えた夫の姿を見つめていた。涙の雨を夫にそそぎ、涙で亡き夫を洗ったのでした…すすり泣き、押し殺した声でこう言ったのです。私の神よ。ああ、神様!なんて変わってしまったのでしょう」(Constant Wairy “Memoirs of Constant, first valet of the Emperor”, Constant Wairy, 1830)

ジャン・ラッフェイ(Jean Laffey :1794 – 1878)

この美しい品種を生み出したジャン・ラッフェイ(Jean Laffey :1794 – 1878)は育種活動の初期、主にチャイナローズの交配に取り組んでいました。デュセス・ド・モントベロを生み出した1824年はその時期に重なります。

そして彼は次第に育種手法に変更を加え、返り咲きする大輪花の育種をめざすようになり、後に、ハイブリッド・パーペチュアル(Hybrid Perpetual:HP)の生みの親として名声をかちえることになります。

その経緯は、フレデリック・キーズ女史が著作『オールドローズ』の中で次のように伝えています。

1830年代、ムッシュー・ラッフェイはチャイナローズの交配に著しい成果をあげていた…

彼がウィリアム・ポールに語ったことによると、とくに中輪・ダークレッドのブルボン/チャイナのアタラン(Athelin)と大輪・ミディアム・ピンクのセリーヌ(Celine)というブルボンローズと他のブルボンや返り咲きダマスクを交配し、1837年から1843年にかけて大輪・返り咲き性のある品種を生み出すことに成功したという。

プリンセス・エレン(Princesse Helene:1837)、マダム・ラッフェイ(Mme. Laffay:1839)、クィーン・ヴィクトリア(Queen Victoria:1840)、デュセス・オブ・サザーランド(Duchess of Sutherland:1840)…などがその成果であるが、1843年、ついに ラ・レーヌ(La Reine)を生み出すことが出来た…
ラ・レーヌの花色であるパープルは、その後多くの後継品種に引き継がれることになり、一群の品種のトップに君臨することとなった。香り高い、少し閉じきみのカップ型の大輪花、花色には(濃色の赤に加え)ライラックあるいはピンクに色合いが入るというのが一般的な特徴である)

Mrs. Frederick Love Keays, “Old Roses” , 1935

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