ガリカの育種の流れについて、これまで『ガリカ、いちばん古いオールドローズ?』と題して①から⑦までたどってきました。今回ガリカの解説は終了といたします。①から今回の⑧まで、品種の個別解説を含めれば、長い長い記事になりました。お読みいただいた方々に深く感謝いたします。
*以下の品種の解説は個々の品種解説と重複しますが、ご了解ください。
プレジダン・ド・セズ(Président de Sèze)- 1836年頃
1836年に刊行された『バラ愛好家のための完全マニュアル(Manuel Complet de l’Amateur de Roses)』にエベール夫人(Mme. Hébert)により育種された品種としてリストアップされたのが文献上での初見のようです。
ジョワイヨ教授は著書『La Rose de France』のなかで、アルディのバラ販売リストの1828年版に記載があるとしていますが、おおかたの資料は1836年より以前としているので、ここでも1836年ころの育種としました。
ピンク・パープルに彩る庭作りによく用いられるのは、個性的でありながら、なおかつ、まわりに植栽された草花とよく調和する特質が見られるためだと思われます。
ニュージーランドのバラ研究家、トレバー・グリフィスは、この品種を「ガリカ品種の中でもっとも美しい…」と賞賛しています。(Trevor Griffiths,『The Book of Old Roses』)
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ジェニー・デュバル(Jenny Duval)と花、樹形とも著しく類似していることから、両品種は同一品種の別名として長い期間みなされたきましたが、最近、それぞれ個別の品種として識別されるようになりました。(Francois Joyaux,『La Rose de France』など)
品種名の由来など
プレジダン・ド・セズとは、フランス革命下、ルイ16世の国民裁判において国王を弁護した法廷弁護士レイモン・コント・ド・セズ(Raymond, comte de Sèze:1748-1828)のことです。

国王として行う事には不可侵性がある、つまり、不可侵の存在を裁くことは不可能であるため、国王を法律上裁可することはできない、国王を断罪しようとするこの裁判は違法であると主張しました。
主張は容れられず、ルイ16世は断頭台の露と消えたことはご存知の通りです。
ジェニー・デュバル(Jenny Duval)- 1846年
フランスのイッポリート・デュバル(Hippolyte Duval)が育種・公表しました。年代は不明な点があるようですが、1846年もしくはそれ以前とされています。デュバル一家はあまり著名ではありませんが、少なくともイッポリートの祖父シャルル(Charles Duval)の代からパリ近郊(北部)のリゾート地モンモランシー(Montmorency)で農場を運営していたようです。
ジェニーはデュバル家の一員(母、姉妹、娘)だと思われます。
由来がつまびらかではないこと、また、’プレジダン・ド・セズ(Président de Sèze)‘との類似から、同一品種か否かについて、
同一品種だ!(グラハム・S・トーマス等)
異なる品種だ!(S・ヴェリエール等)
という両極端の説があります。ここでは、最新の研究の成果を取り入れているS・ヴェリエールの説に従い、プレジダン・ド・セズとは別品種として取り扱うこととしました。
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品種名の由来など

『悪の華』など、耽美的な詩を残し象徴詩に大きな影響を与えたシャルル・ボードレール(Charles Baudelaire:1821-1867)の恋人で、19世紀中頃のパリ中の青年たちを魅了し、「黒いヴィーナス(Vénus Noire)」と呼ばれたジャンヌ・デュバル(Jeanne Duval:1820-1862)にちなんだ命名だという解説も見受けますが、無理があるように思います。
なお、『悪の華』にはジャンヌ・デュバル篇と呼ばれるボードレールがデュバルをモチーフにした詩が含まれています。
詩集は難解で翻訳をこころみるフランス文学者たちを悩ませているようです。
ベラール(Bellard)- 1846年
ベルギーの園芸家、ルイ・ヴァン・ホウテ(Louis Benoît van Houtte:1810 – 1876)は、草木、花材の供給でもありましたが、そればかりではなく、南米で野生ランの蒐集に励むなど園芸の発展に大きな貢献を果たしました。このベラールは、ホウテの1846年版販売カタログ『Cultures de / Établissement Horticole(園芸作物/園芸施設)』にリストアップされています。
交配親、実際の育種年の詳細は不明のままです。’Bellard’はフランス系男子のファーストネームですが、どんな人物であったかも分かっていません。
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アンリ・フーキエ(Henri Foucquier)- 1846年
1846年には知られるようになった品種ですが、誰が育種したのか、どんな交配により生み出されたのか、いずれも分かっていません。
フランスの著名なジャーナリストアンリ・フーキエ(1838 – 1901)にちなんで命名されたという解説もありますが、育種された1846年にアンリ・フーキエはわずか7,8歳ですので無理があります。
ジョワイヨ教授が『La Rose de France』のなかで指摘していますが、ベルギーを本拠とすバラ供給業者の販売カタログには、フーキエ一家にちなむと思われるバラ、 ‘ジョゼフィーヌ・フーキエ(Joséphine Foucquier)’ルイ・フーキエ( Louis Foucquier)’など多くの品種をを見出すことができるので、ベルギーにフーキエ家というナーサリーがあったのではないかという推察していますが、当を得ていると感じます。
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ロベール・ル・ディアーブル(Robert le Diable)- 1850年
パープリッシュなカーマイン/バーガンディとなる花色。
葉やトゲはガリカに典型的なものではなく、むしろケンティフォリアに近いと感じる研究者が多く、カーマイン/バーガンディの花色のケンティフォリアとするのが適切なのかもしれません。
育種年は1837年以前、あるいは1850年ころとも言われて不確かなまま、育種者もわかっていません。頼りにしているジョワイヨ教授の解説によると、
「…古いカタログには、ケンティフォリアの一種だと記載されているが、フランス産ではなく、オランダもしくはベルギーから由来したもので、1837年には知られるようになった…」
とのことです。
トーマス・リヴァース(Thomas Rivers)はその著『ザ・ローズ・アマチュアズ・ガイド(The Rose Amateur’s Guide)』(1837)の中で、
「明るく、コンパクト・サイズのダブル咲き…」と解説していて、カーマインの花色のものとの違いが顕著です。1850年ころ、既存のガリカがより美しいケンティフォリアに入れ替わったのではないかと思われます。
ここでは1850年説を正としました。
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品種名の由来など
“ロベール・ル・ディアーブル”とは、”悪魔のロベール”という意味です。
ジャコモ・マイヤベーヤ(Giacomo Meyerbeer:1791-1864)が作曲し、1831年、パリのオペラ座で初演されたオペラ『悪魔のロベール(Robert le Diable)』にちなんで命名されました。1831年、パリのオペラ座で初演が行われ、空前の成功を収めたと伝えられています。

このオペラはドミニコ派の修道僧が伝えた説話に基づいています。
ロベールは11世紀初頭のノルマンディー公国の王でした。出生には秘密があり、実は嫡子に恵まれなかった母親が悪魔ベルトランと交わって授かった「悪魔」の息子でした。
生来残虐行為がやまないため人びとから恐れられていましたが、ある日自分の出生の秘密を知ることとなりました。
衝撃を受けたロベールは国を捨てて巡礼し、ローマで自らの業を法王に告白し贖罪の苦行を行います。そして、狂人を装ってローマの地に留まりました。
その後、サラセン人の襲撃からローマを防衛するにあたり功があったものの、修道僧として若い生涯を終えたと伝えられています。
しかし、この話は時代を下ると、父である悪魔ベルトランは地獄へ帰り、ロベールは愛する姫と結婚するというハッピー・エンドに書き換えられました。マイヤベーヤのオペラはこのハッピー・エンド版を踏襲しています。
ジョルジュ・ヴィベール(Georges Vibert)- 1853年
フランスの地域園芸誌『メーヌ=エ=ロワール園芸協会誌(Travaux du Comice Horticole du Maine et Loire)』の1853年版に、
「ヴィベールの後継者であるムッシュー・ロベールにより育種された」という記述が残っています。
ロベールは、フランスの偉大な育種家ジャン=ピエール・ヴィベール(Jean-Pierre Vibert)の活動後期、圃場のヘッド・ガーデナーを務め、ヴィベールが1851年の引退後は農場を受け継いだ人物です。
1857年にはモロー(Moreau)を共同経営者に迎え、農場名をロベール・エ・モロー(Robert et Mereau)に改名、さらに1864年に農場はモロー=ロベール(Moreau-Robert)へと移譲されてゆきました。
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品種名の由来など

ジョルジュ・ヴィベールはヴィベールの一族のひとりだと思いますが、ジャン=ピエールとの関係はよく分かっていません。実はジャン=ピエールの息子テオドールの息子にジャン=ジョルジュ・ヴィベール(Jehan-Georges Vibert:1840 – 1902)がいます。ジャン=ピエールの孫にあたります。この品種が育種・公表された1853年には13歳の少年でしたので、孫にちなんだ命名というのはあまり可能性が高いとは言えないかと思いますが、ジャン=ジョルジュは長じて著名な画家となりました。
ジャン=ジョルジュは、伝統を重んじた画風を守り、官展をおもな公表の場としていたため、アカデミー派とも、また、貴族などの集まるサロンによく出入りすることからサロン派とも呼ばれていました。
このアカデミー派の保守的な画風に反発し、強い対抗心をいだきつつ近代絵画の幕開けを演じたのが印象派の画家たちでした。アカデミー派は印象派の画家たちの輝かしい成功の影に隠れて、長い間、返り見られることがありませんでしたが、最近になって、ようやく伝統的な技法が見直されるようになり、再び脚光を浴びつつあるようです。
シギョク/紫玉(Shigyoku)- 1836年頃
何時とははっきりしていませんが、明治時代となってから、日本において、いずれかのガリカの実生などから育種された品種だと言われています。
井関十二郎『最新薔薇栽培法』(青木嵩山堂、明治36年6月)には、
「紫玉 花紫色にして千重咲き、花形極小輪なり…」
と記載されています。明治36年(1903年)にはすでに世に知られていたことが判ります。
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品種名の由来など
品種名の’紫玉(シギョク)’は、パープルの花色のポンポン咲きになるからという解説が多いのですが、ずっとなにか由来があるのかもしれないと感じていました。思いいたる資料に巡り合いました。一説としてご参考にしていただければと思います。
中国の春秋時代、呉の国の話として伝わっている幽霊譚があります。(4,5世紀、六朝時代に編纂された怪奇小説集『捜神記(ソウジンキ)』)
この幽霊譚は古くから伝えられていて、数多くのバージョンがあるようですが、公表されている翻訳があるのでそちらをご照覧下さい。捜神記(ソウジンキ)』翻訳の一部、「紫玉と韓重」を引用します。
紫玉と韓重
春秋時代の呉の王、夫差には娘がおり、名を紫玉と言い、18歳で教養は高く外見も非常に美しかった。韓重と言う少年は19歳で、道術が使えた。紫玉は韓重を愛し、暗闇の中で手紙の交換を行い、韓重に嫁ぐと答えた。韓重は斉、魯周辺に学問を学びに行き、行く間際に父母に韓重のために求婚をしてくれるように頼んだ。すると、呉王は激怒し、娘を韓重に嫁がせるとは言わなかった。紫玉は失望し、死んでしまった。紫玉の亡骸は閶門(しょうもん)の外に埋葬された。
三年後、韓重が戻ってきて父母に求婚の事を聞くと、「呉王は怒り、結婚を許さなかったので紫玉は死んでしまった。すでに埋葬されている。」と答えた。韓重は非常に悲しみ、祭品を持って墓に参った。紫玉の魂魄が墓の中から出てきて韓重と会い、涙を流して、「あの年、あなたが去った後、あなたの父母が父王にあなたとの結婚のお願いをしましたが、私たちの心情を退けてしまいました。思いがけない別れの後、このような厄運にあってしまいました。どうすることが出来ましょう。」と言った。
紫玉は続けて顔を向きなおし頭を上げて、「南山上には鵲がおり、北山上には羅網がいる。鵲は早くに南へ飛んでいき、羅網はどうすればいいのか。あなたを想うが、いかんともしがたい中傷が多い。憂いが積み上がり病となり、黄泉で命を失う。運命は如何に不公平なことか。志を曲げることが明かになるのはいつであろう。山林百鳥の王、名は鳳凰と言う。一旦雄の鳳が去れば、雌の凰は三年悲しむ。鵲は沢山いるというけれども、つがいになるのは難しい。このため、再びその姿を現し、あなたと会い隙間から光を放っています。あなたと私は体は離れていますが、心は近いのです。お互いにいつ忘れることが出来るのでしょうか。」と歌った。
紫玉が歌い終わると、顔は涙で満たされていた。彼女は韓重と共に墓穴に戻ろうとしたが、韓重は、「陰間陽間は異なる世界だ。私は禍を受けるのが恐ろしいので、あなたの思いを受け取ることが出来ない。」と言った。紫玉は、「陰陽両界は同じではありません。それは私も知っています。しかし、今日分かれると、永遠に朝は戻ってきません。あなたは私がすでに鬼になっており、あなたに害をなすことを恐れているのでしょう。私は誠心誠意あなたに尽くしたいと思っています。それでも私を信じられないのですか?」と言うと、韓重はこの心情の吐露に心を動かさ、彼女を墓穴へと送りにいった。
ブログ;第十六巻:”捜神記を翻訳してみた”https://prometheusblog.net/2019/01/06/post-7690/ 2026.08.03検索
シャルラッハグルート(Sharlachglut)
1952年、ドイツのW・コルデス2世(Wilhelm Kordes II)により育種・公表されました。
シャルラッハグルート(Scharlachglut)とは”緋色の炎”の意。英語圏ではスカーレット・ファイヤー(Scarlet Fire)という翻訳名で知られています。
種親:赤花のHTポインセチア(Poinsettia)
花粉:赤花のガリカ、アリカ(Alika)
という交配によって生みだされました。
シャルラッハグルートは育種・公表当初はモダン・シュラブにクラス分けされていました。しかし、春一季咲きであることもあって後にガリカへとクラス替えされました。20世紀に入ってからの育種・公表となりましたが、系列上はオールド・ローズとなります。この品種は、例外的な大輪と鮮やかな赤い花色で知られている’アリカ’の影響を色濃く受け継いでいます。
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アリカは米国サウス・ダコタのニールズ・エベッセン・E.ハンセン教授(Prof. Niels Ebbesen Hansen)が1906年にロシアで入手したものです。当初は’ガリカ・グランディフローラ(Gallica Grandiflora;“大輪ガリカ”)’と命名されたようでしたが1930年ころ市場へ出回るようになったときにアリカという品名となったようです。
アリカは女性のファーストネームだと思いますが、誰だったのかは分かっていません。
シシングハースト・キャッスル/ロズ・ド・ムール(Sissinghurst Castle/Rose de Maures)- 1836年頃
1この品種は、1947年、サッカヴィル=ウェストが購入したシシングハースト城で発見し、それにちなんで命名されたものです。数百年を経た古い株ではないかと思われていましたが、フランスのジョワイヨ教授等は、オランダからフランスへもたらされた古い品種(ガリカ)であるロズ・デ・ムール(Rose des Maures;”ムール~北アフリカ~のバラ”)ではないかと述べ、現在、受け入れられつつある説となっています。(『La Rose de France』)
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品種名の由来など

ヴィタ・サックヴィル=ウェスト(Vita Sackville=West:1892 – 1962)は英国ケントの男爵家作家サックヴィル家に生まれました。
長じて詩人、小説家として名声をかち得ましたが、オープン・マリッジ(婚姻関係を保ちつつ、他の人物との性的な関係を続ける)に傾倒し、やはり著名な作家であったバージニア・ウルフとの同性愛にも走るなどスキャンダラスな人生を送りました。
当時先進的な芸術活動グループとして知られていたブルームズベリー・グループ(Bloomsbury Group)にも深く関わるなど、今日のフェミニズムに連なる、左翼自由主義者として知られています。
1930年、息子とともにイングランド南東部ケント州にあるシシングハースト城を訪れたヴィタは、当時荒廃していた城の魅力の虜となってしまい、ただちに城と周囲の広大な農地を購入し、夫ハロルド・ニコルソン(Harold Nicolson:1886 – 1968)の協力も得て庭つくりに取り組むこととなりました。
この庭園は1938年に一般に公開するようになりました。これが英国で最も名高い庭園のひとつであるシシングハースト・キャスル・ガーデンです。
中央部、一段と高いレンガ積みのタワーがそびえ、その周囲にそれぞれテーマをもった庭造りがされていますが、とりわけ、白い花のみを植栽したホワイト・ガーデンが広く知られています。1962年、ヴィタが死去したのち、1967年からは、英国ナショナル・トラストの管理下となって、一般公開されています。



