google-site-verification=CxQ45yfpUGyC9m-Gh3FxLnXPl2xSu8LaT7VqPsx9Py0pub-1741325905445363

バラ、特にオールドローズ、ランブラーが好きです。
品種名の由来や込められた思い、あるいは背景となった物語、
また、育種者が生きた時代などへの想像をふくらませる作業などを続けています。
バラと宿根草や、葉色が美しいリーフプランツや灌木などを配置したコテージガーデンの作庭も夢見ています。

ガリカ、いちばん古いオールドローズ?③~黎明期/シュワルツコフ

Perle_von_Weissenstein

園芸種としてのガリカ、とくにその黎明期を語るとき、ドイツのダニエル・A・シュワルツコフ抜きで語ることはできません。
(註:以下記事は以前の記事『黎明期のバラ育種家~ダニエル・A・シュワルツコフ(Daniel August Schwarzkopf )』(現在非公開)および彼が育種したと同定されている品種の詳細を一部修正のうえ再録したものとなります)

ダニエル・A・シュワルツコフ(Daniel August Schwarzkopf:1737-1817 )

シュワルツコフは、1737年、ドイツ、ライプツィヒの北西部に位置するハレ/ザーレ(Halle/Saale)近郊の小さな村オストラウ(Ostrau)で生まれました。18世紀の時代、ハレ/ザーレンは神聖ローマ帝国領でしたが、ナポレオン戦争時代にはフランス領となったり、また神聖ローマ帝国に復帰するなど政争の荒波に翻弄された地域です。

父も庭師であり、ダニエルも地元の学校で初等教育を受けたのち父の元で生業を手伝い、 ヴォルフェンビュッテル(Wolfenbüttel)や ヘレンハウゼン(Herrenhausen)などでも修行を積みました。
1757年、19歳のときシューレンブルグ伯爵家のガーデナーとなり、さらにオランダ、英国でも修行を重ねました。
1766年(28歳)、ヴァイセンシュタイン城(Schloss Weißenstein )の庭園丁に就任し、当時流行していた中国式庭園の設計・施工にたずさわりました。

ヴァイセンシュタイン城(Schloss Weißenstein)
‘Schloss Weißenstein’ engraved by Johann August Corvinus [Public Domain via Wikimedia Commons]

バラの育種をはじめたのは1773年ころと推定されます。150種を超えるバラ・コレクションがあり、下記で述べるような多くの新品種の育種も行ったとされています。1817年に死去。
https://architekturzeichnungen.museum-kassel.de/0/35249/ 2026.02.06閲覧、一部略記)

バラ育種史に残した功績

18世紀末のバラ育種を取り巻く環境

ヨーロッパにおいて、バラは十字軍の帰郷時など非常に古い時代に中東からもたらされ、花の美しさは愛でられてはいましたが、長い間、香料の原料としてのダマスク、薬剤としてのガリカ・オフィキナリスなどおもに実用的な用途に利用されていました。
しかし、18世紀末、ケンティフォリアなどの美しいバラが、低地地方と呼ばれたオランダやベルギーからフランスへもたらされ、上流階級のサロンでもてはやされるようになり、バラはようやく園芸植物として注目され始めました。
シュワツコフのバラ育種は時代を先駆けており、現在までに判明している範囲では、文字通り”最初のバラ育種家”として賞賛されるべき存在です。

時代に残したシュヴァルツコフの業績

1785年ころ、ヴァイセンシュタインには150 種におよぶバラが植栽されており、当時のヨーロッパ最大のバラのコレクションであったと言っても過言ではありません。

1783年に刊行された『Verzeichnis des Landschaftsparks von Schönbusch(ショーンブッシュ公園における植栽リスト)』の中に庭園丁であったクリスチャン・フランツ・ボード(Christian Franz Bode)」が作成した106種にわたるバラ・リストがありますが、その中にシュワツコフが育種したと思われるものが数多く含まれています。
これらのバラはオランダとフランスの苗木カタログに掲載され、育種者が明記されずに、あるいは後の時代に活躍する育種家の名を冠して流通することとなりました。
このことから、シュワルツコフが育種したと判明した品種の多くは「1785年以前」と記載されるだけとなりました。上述したとおり、彼がバラの育種をはじめたのは1773年ころとされているので、不明の場合は「1785年以前」とするのではなく、「1773~1785年ころ」とするべきかと思います。

また、1815年、ボタニカル・アーティストであるサルモン・ピナス(Salomon Pinhas)が刊行したバラのイラスト集『Rosen-Sammlung zu Wilhelmshöhe(ヴィルヘルムショーンのバラコレクション)』にはシュワツコフが育種したと思われるバラが数多く掲載されており、現在は、前資料と照合してシュワツコフ育種品種の同定に利用されています。

育種した主な品種

今日、シュワツコフにより育種された品種のうち、比較的知られていて入手可能なものをリストアップしました。
おおくの品種はガリカにクラス分けされていますが、花色の変化を求めたのでしょう、ケンティフォリアやアルバとの交配を試みた形跡があります。

  • ペルル・フォン・ヴァイセンシュタイン(Perle von Weissenstein) – 1773年
  • エマーブル・ルージュ(Aimable Rouge) – 1783年
  • ベル・サン・フラットリ―(Belle sans flatterie) – 1783年
  • マントー・プルプル(Manteau Pourpre) – 1783年
  • ソレイユ・ブリヨン(Soleil Brillant) – 1783年
  • ヌーベル・ピヴォワーヌ(Nouvelle Pivoine) – 1806年
  • プルプル・シャルマン(Pourpre Charmant) – 1806年
  • レーヌ・デ・サンフューユ(Reine des Centfeuilles) – 1808年
    (註:一般的にはケンティフォリアにクラス分けされていますが、育種の経緯からここでも言及することにしました)

ペルル・フォン・ヴァイセンシュタイン(Perle von Weißenstein)

7㎝から9㎝径、26から40弁ほどの中輪、ダブル咲き。花芯に色抜けした小さな花弁が残りグリーンアイとなることもあります。
花色はミディアム・ピンク、開花当初は強めに色が出て、ストロング・ピンクとなることが多いようです。
マイルドな香り(中香)。
たまご形のつや消し葉、120㎝から250㎝高さほどの中型のシュラブとなります。
画像をクリックすると詳細記事にジャンプします。

花色、花形、こんもりと茂る大株となることが多いことから一季咲きのダマスクにクラス分けされることが一般的です。しかし、後述するジョワイヨ教授の解説のように葉や茎に密生する紅のトゲなどガリカの特徴が見られることから、ダマスクとガリカの交配から生み出されたのではないかと解釈されています。

2001年に刊行された『ヴィルヘルムショーネのバラ コレクション(Rosen-Sammlung zu Wilhelmshöhe)』における記述、
「このバラは、ヴィルヘルムショーネ公園に200年以上にわたって立ち続けている」
がこの品種の希少さを端的にあらわしていると思います。

育種者、育種年など

世界最初の園芸バラか?~現在、受け入れられている解釈

1773年ころ、ドイツのシュヴァルツコフ(Daniel August Schwarzkopf)により育種されたと推測されています。
ドイツにおいて最も早く育種された園芸バラであり、おそらく、バラ育種史上においても意図的に育種された最も早く世に出た園芸バラ、世界最初の園芸バラと言ってもいいのではないかと思っています。

育種者、年などの現在説の根拠

ヴァイセンシュタイン城のローズガーデンは1765年ころから作られ、1775年には完成されたとみなされています。
1777年に発行された『ブッチャーズ、ヴァイセンシュタインの樹木および灌木カタログ(Böttcher’s catalogue of the Trees and Shrubs of Pleasure Garden of Weissenstein)』にはシュワツコフが育種または蒐集したバラが記載されています。リスト内には品種名の明記はないものの、現在でも見ることができるペルル・フォン・ヴァイセンシュタインはシュワツコフが育種したバラのうち、もっとも早いものであることが知られています。

エマーブル・ルージュ(Aimable Rouge)

飾りのような優美な萼片に覆われていた丸みのあるつぼみは開花すると5cm径ほど、40弁をこえるカップ形またはロゼッタ咲きとなります。花色はピンクを含んだ赤、茜(あかね)色。香りはそれほどでもありません(中香)。
いかにもガリカらしいたまご形のつや消し葉。150㎝から180㎝高さのシュラブとなります。
画像をクリックすると詳細記事にジャンプします。

育種者、育種年などの混乱

現在出回っている’エマーブル・ルージュ(Aimagle Rouge;”感じのいい赤”)’は完成度が高く、本来のものではなくいずれかの時代によく似た品種と入れ替わったのではないかという意見が多いです。

ジョワイヨ教授の解説
最初のエマーブル・ルージュは消滅してしまい、現在同名で流通しているものは1819-20年ころ、ヴィベールにより育種され、親しみやすい品種名が与えられたのだろう…
ゲルダ・ニッセンの解説
1979年、わたしがデンマークのオールドローズ農場で再発見したもので、ジョゼフィーヌがマルメゾンで育てていて、その愛らしい名前をつけたに違いない…
現在、受け入れられている解釈
1798年以前、ドイツのシュヴァルツコフにより育種されたが、すでに消滅し現存していない。同名で流通している品種の由来は不明のまま。

シュワルツコフが育種者であるとの根拠

1783年に刊行された『Verzeichnis des Landschaftsparks von Schönbusch(ショーンブッシュ公園における植栽リスト)』の中に庭園丁であったクリスチャン・フランツ・ボード(Christian Franz Bode)」が作成したバラ・リストの中に記載されていて、シュワツコフが育種したと思われるものと解釈されています。

1815年、ボタニカル・アーティストであるサルモン・ピナス(Salomon Pinhas)はバラのイラスト集『Rosen-Sammlung zu Wilhelmshöhe(ヴィルヘルムショーンのバラコレクション)』にもエマーブル・ルージュを掲載されています。

ベル・サン・フラットリ―(Belle sans flatterie)

7cmから9㎝径、40弁を超えるロゼッタ咲き。しばしば花芯に緑芽が形成されます。
花色としてのカテゴリーとしてはモーヴ(藤色)とするのが適切だと思います。花芯は明るいライラック、外弁はうす紅色に色抜けします。
強い香り。
深い色合いのつや消し葉、120㎝から150㎝高さほどのシュラブ。

春一季咲きのガリカにクラス分けされていますが、色合いが薄いのでガリカのアガタ(Agatha)グループのひとつとされることもあります。
画像をクリックすると詳細記事にジャンプします。

育種者、育種年など

現在、受け入れられている解釈
1798年以前、ドイツのシュヴァルツコフ(Daniel August Schwarzkopf)により育種されました。交配親の詳細は知られていません。
DNA検査の結果、ガリカ・オフィキナリス(アポシカリー・ローズ)との類似が著しいことが判明しました。花形、花色の違いは著しいですが、葉や樹形が類似しているのかもしれません。
ベル・サン・フラットリーとは「文句のつけようのない美しさ」という意味ですが、19世紀の初め、フランスで紹介されると、この品種は驚きをもって迎えられました。
この完成された美しい品種が18世紀の終わりころにすでに作出されていたことは信じられなかったのでしょう。かつては、ずっと後の時代のものだという解釈がなされていました。

シュワルツコフが育種者であるとの根拠

1783年に刊行された『Verzeichnis des Landschaftsparks von Schönbusch(ショーンブッシュ公園における植栽リスト)』の中に庭園丁であったクリスチャン・フランツ・ボード(Christian Franz Bode)」が作成したバラ・リストに含まれています。

1815年、ボタニカル・アーティストであるサルモン・ピナス(Salomon Pinhas)はバラのイラスト集『Rosen-Sammlung zu Wilhelmshöhe(ヴィルヘルムショーンにのバラコレクション)』にもベル・サン・フラットリーが掲載されています。

マントー・プルプル(Manteau Pourpre)

9cmから11㎝径の大輪、40弁を超える多弁のロゼッタ咲き。
花芯は濃いカーマイン/バーガンディ。あるいは、紫にわずかに赤みをおびたマルベリー色となります。全体としては均一な色合いですが、花弁縁はいくぶんか色抜けすることが多いと思います。
強い香り。
深い色合いのつや消し葉、120㎝から150㎝高さほどのシュラブ。
画像をクリックすると詳細記事にジャンプします。

育種者、育種年など

現在、受け入れられている解釈
1798年以前、ドイツのシュヴァルツコフ(Daniel August Schwarzkopf)により育種されました。交配親の詳細は知られていません。
マントー・プルプルとは「紫色の外套」という意味です。19世紀の初め、フランスで紹介されると、この品種も驚きをもって迎えられました。

多くの別名
この品種名は花容をあまりに直接的に表現していることから、おもむきに欠けると思われたのでしょうか、多くの別名が生じてしまいました。

ポーシア(Porcia)、ベル・ブルボン(Belle Bourbon)、Pontiana(ポンティアナ)、アンドレ・デュポン(André Dupont)、ルージュ・フォルミダーブル(Rouge formidable)、グランド・コンデ(Grande Condé)、ヌーヴェル・ブルボン(Nouvelle Bourbon)など

育種者、年などの現在説の根拠

1783年に刊行された『Verzeichnis des Landschaftsparks von Schönbusch(ショーンブッシュ公園における植栽リスト)』の中に庭園丁であったクリスチャン・フランツ・ボード(Christian Franz Bode)」が作成したバラ・リストに含まれています。

1811年、クロード-トマ・グラパン(Claude-Thomas Guerrapain)が刊行した『婦人のためのバラ年誌(Almanach des Roses, dédié aux dames)』というバラ解説本のなかで次にように詳細に記述されています。

…色はとても新鮮で、暗く鮮やかなピンクです。
あまり多弁ではありませんが、とても心地よい香りを放ちます。
花の縁の花びらは、マホカ(註:ベル・スルタンの別名)の花びらよりも濃い赤で縁取られています。(花弁の)裏は艶出しされてかのようです。この特徴的な模様が”紫の外套(マント―・プルプル)”という名前をもたらしたことは間違いありませんが、(実際には)紫色ではないため、この名前は似合いません…
一般的に、このバラは完璧な種の一つで、5月30日頃に開花します。

ソレイユ・ブリヨン(Soleil Brillant)

飾り付けたような細めの萼弁につつまれていた赤みを帯びた蕾は開花すると17から25弁ほどのダブル咲き、7㎝から9㎝径の中輪、オープン・カップ形の花形となります。
花色はミディアム・ピンク、弁にスポット(班模様)がでることも。
強い香り。
深い色合いのつや消し葉、120㎝から180㎝高さほどの中型のシュラブ。
”輝かしい太陽”という名を冠した一季咲きのガリカです。明るい花色のため、サブ・クラスとしてアガサ/アガタ(Agatha)とされることもあります。
画像をクリックすると詳細記事にジャンプします。

育種者、育種年など

現在、受け入れられている解釈
1798年以前、ドイツのシュヴァルツコフ(Daniel August Schwarzkopf)により育種されました。交配親の詳細は知られていません。しかし、下記した通り、1840年ころに別品種に入れ替わってしまったのかもしれないという疑問が生じています。

育種者、年などの根拠

1783年に刊行された『Verzeichnis des Landschaftsparks von Schönbusch(ショーンブッシュ公園における植栽リスト)』の中に庭園丁であったクリスチャン・フランツ・ボード(Christian Franz Bode)」が作成したバラ・リストに含まれています。

また、1811年、クロード-トマ・グラパン(Claude-Thomas Guerrapain)が刊行した『婦人のためのバラ年誌(Almanach des Roses, dédié aux dames)』にも次のような解説があります。

ソレイユ・ ブリヨンは、このクラス(ガリカ)にふさわしい…
花芽は通常黄緑色で、萼は楕円形。
この花はケンティフォリアと同じ大きさで、また八重咲きで、雄しべはなく、濃いピンク色で、色合いの変化もなく、花びらは丸まって縮れている。これは美しい品種で、心地よい香りがします。

同種・別名?ヒュパティア(Hypatia)

1840年ころ、’ヒュパティア(Hypatia)’という品種名で流通しはじめたバラがあります。ガリカではなく、ケンティフォリアにクラス分けされていますが、実際には現在出回っているソレイユ・ブリヨンと同じもの、別名・同種だろうとされています。
そのことから、現在市場に出回っている実株がシュワルツコフが育種したオリジナルのものが1840年にヒュパティアとして流通するようになったのか、逆に、シュヴァツコフが育種した品種は消失してしまい、ヒュパティアがソレイヨ・ブリヨンの名を踏襲したのか判別しがたいものになってしまっていました。

ジョワイオ教授による解説

ガリカの解説書としてもっとも信頼のおけるジョワイオ教授は著作『フランスのバラ(La Rose de France)』(1998)のなかで次のように語っています。

1790 年以前… 1790 年のフランソワのカタログに記載されている古い品種… フランスのナーサリーはオランダから多くのバラを輸入していたため、この品種はオランダで生まれた可能性がある…
ソレイユ・ ブリヨオンは、
1803 年のデスメのカタログ
1811 年のグラパンの年誌(後述)
1819 年と 1820 年のヴィベールのカタログに記載されている。
1912 年、(L’Haÿ バラ園のオーナー)グラブローは第一帝政時代(註:ナポレオン1世が帝位にあったの時代)のガリカを検討した後、ソレイユ ・ブリヨンとヒュパティアは同品種であると結論づけた。
L’Haÿ バラ園に植栽されているふたつの品種を較べると、同一であるように思われる…

以上のことから、ここではオリジナルのソレイユ・ブリヨンが、今日までそのまま存続している。1840年に別名ヒュパティアと呼ばれることもあるようになったと解釈することにしました。

ヒュパティア~美しく聡明な女性哲学者

別名のヒュパティア(Hypatia or Hypathia:370?-415)は、東ローマがまだ地中海地域を支配していた4世紀、北アフリカのアレクサンドリアで、博識で美しい女性で数学者、天文学者そして新プラトン主義を奉ずる哲学者として令名を馳せていた人です。

ルネサンス芸術を代表する画家のひとり、ラファエル・サンティ(Raffaello Santi:1483-1520)が残した傑作『アテナイの学堂』は古代ギリシャの哲学者達を描いた群像図として知られていますが、絵画の左側で横向きの姿勢から顔をこちらに向けている白衣の女性がヒュパティアだろうと解釈されています。

ラファエロ『アテナイの学堂』
ラファエロ『アテナイの学堂』
ヒュパティア肖像
ヒュパティア肖像(『アテナイの学堂』部分)

ヌーベル・ピヴォワーヌ(Nouvelle Pivoine) 

11㎝から13㎝径、26から40弁ほどの大輪のロゼッタ咲き。しばしば花芯にグリーンアイが生じます。
ミディアム・ピンクにパープリッシュな色合いを加えた落ち着きのある花色。花弁縁は色抜けして淡い色合いへと変化し、おもむきのあるグラデーションとなります。
強い香り。
深い色合いのつや消し葉、120㎝から180㎝高さほどの中型のシュラブ。
”新しい芍薬”という名を冠した一季咲きのガリカです。明るい花色のため、ガリカのサブ・クラスであるアガサ/アガタ(Agatha)とされることもあります。
画像をクリックすると詳細記事にジャンプします。

育種者、育種年など

現在、受け入れられている解釈
ドイツのシュヴァルツコフ(Daniel August Schwarzkopf)により育種されました。1806年には市場に出まわっていたことが文献から知られていますが正確な育成年は不詳のままです。
交配親の詳細も不詳のままです。
公表当初は’グラン・トリオンフ(Grand Triomph)’という品種名でしたが、1814年ころからヌベル・ピヴォワーヌ(新しい芍薬)と改名され、それが今日まで正式品種名として伝えられています。

なぜ?品種名変更
’グラン・トリオンフ’とは、「偉大な勝利」という意味です。
この品種が世に出たのが1806年だったとすると、「偉大な勝利」という品種名が象徴しているのは、1805年12月、皇帝ナポレオンがアウステルリッツ(現チェコ領)においてオーストリーおよびロシア帝国連合軍と会戦し勝利したことではないかと思いました。
公表後、花弁縁が色抜けするミディアム・ピンクの花要が芍薬の花によく似ていることから’ヌーベル・ピヴォワーヌ(新しい芍薬)’のほうがふさわしいとされるようになったのではないかと推測します。

育種者、年などの現在説の根拠

この品種も、1806年に刊行された『Verzeichniss sämmtlicher Bäume und Sträucher in den Grossherzoglich-Badischen Gärten(大バーデン大公庭園のすべての樹木と低木のリスト)』のバラリストなかににグラン・トリオンフ(Grand Triomph;ヌーベル・ピヴォワーヌの旧名)があります。

1815年、ボタニカル・アーティストであるサルモン・ピナス(Salomon Pinhas)はバラのイラスト集『Rosen-Sammlung zu Wilhelmshöhe(ヴィルヘルムショーンにのバラコレクション)』にグラン・トリオンフを掲載しています。

1805年、アウステルリッツの戦い

1805年12月2日、オーストリア領モラヴィナのアウステルリッツにおいて、ナポレオン率いるフランス軍73,000名と、オーストリア、ロシア両帝国連合軍84,000名が会戦し、夕刻までに、連合軍は15,000人の死傷者と多数の捕虜を出し、散り散りになって敗走し、会戦はフランス軍の圧勝となりました。勝利したフランス軍の死傷者も8,233名に上りました。

'The Battle of Austerlitz, 2nd December 1805' Painted by François Gérard
‘The Battle of Austerlitz, 2nd December 1805’ Painted by François Gérard [Public Domain via Wikimedia Commons]

この戦いにおいてはフランス、オーストリア、ロシアの皇帝が参戦したことから三帝会戦と呼ばれることもあります。
敗れたオーストリアは巨額の賠償金に加え、バイエルン、イタリアなどの領地の割譲を強いられ、ロシア軍もヨーロッパからの撤退を余儀なくされる結果となりました。

パリの代表的な観光地であるエトワール凱旋門はこの勝利を記念して古くからあった門を改築したものです。改築は大勝利の興奮冷めやらぬ1806年にナポレオンの命により開始されましたが、完成は1836年で、すでにナポレオンの時代ではありませんでした。(Wikipedia等を閲覧)

プルプル・シャルマン(Pourpre Charmant)

11㎝から13㎝径、26から40弁ほどの大輪のロゼッタ咲き。
花色はモーヴ(藤色)、色合いが深まりパープルとなることもあるようです。
強い香り。
濃い色合いのつや消し葉。剛毛のような小さなトゲ、細いけれど固めの120㎝から180㎝高さほどの中型のシュラブとなります。古い由来のガリカに典型的な樹形です。
”素敵なパープル”という名を冠した一季咲きのガリカです。現在市場には花弁に濃淡の縞が生じる品種が出回っていますが、それは本来、別品種であろうというのが一般的な解釈です。
画像をクリックすると詳細記事にジャンプします。

育種者、育種年など

現在、受け入れられている解釈
ドイツのシュヴァルツコフ(Daniel August Schwarzkopf)により育種されました。1806年には市場に出まわっていたことが文献から知られていますが正確な育成年は不詳のままです。
交配親の詳細も不詳のままです。

育種者、年などの現在説の根拠

この品種も、1806年に刊行された『Verzeichniss sämmtlicher Bäume und Sträucher in den Grossherzoglich-Badischen Gärten(大バーデン大公庭園のすべての樹木と低木のリスト)』のなかにシュワツコフが育種したバラと思われるバラのリストがあり、そのなかのひとつにプルプル・シャルマン(Pourpre Charmant)があります。

1815年、ボタニカル・アーティストであるサルモン・ピナス(Salomon Pinhas)はバラのイラスト集『Rosen-Sammlung zu Wilhelmshöhe(ヴィルヘルムショーンにのバラコレクション)』にプルプル・シャルマンを掲載しています。
この図の品種が本来のプルプル・シャルマンであれば、モーヴまたはパープルに濃淡の縞模様がでる花色の品種は同名の別品種であると判断されます。

レーヌ・デ・サンフューユ(Reine des Centfeuilles)

11㎝から13㎝径、26から40弁ほどの大輪、カップ型のロゼッタ咲き。花芯に色抜けした小さな花弁が残り、緑芽となることもあります。
花色はミディアム・ピンク、開花当初は強めに色が出て、ストロング・ピンクとなることが多いようです。
マイルドな香り(中香)。
たまご形のつや消し葉、120㎝から250㎝高さほどの中型のシュラブ。
画像をクリックすると詳細記事にジャンプします。

まちまちな品種名

この美しい品種は当初’ヌーベル・ガニュ(Nouvelle gagné:新たな勝利者)’とされていました。
しかし、やがて’レーヌ・デ・サンフューユ(Reine des Centfeuilles:ケンティフォリアの女王)’、’ド・ラーグ(de la Hague:ハーグ由来)’というよく似たケンティフォリアが出回るようになりました。
後述するように、これらの品種は実際には同一品種であろうと解釈され、現在、一般的には”レーヌ・デ・サンフューユ(”ケンティフォリアの女王”)と呼ばれるようになりました。

育種者、育種年など

現在、受け入れられている解釈
ドイツのシュヴァルツコフ(Daniel August Schwarzkopf)により育種され、ヌーベル・ガニュ(Nouvelle gagné)と命名されて公表されました。1808年には市場に出まわるようになっていたことが文献から知られています。その後、レーヌ・デ・サンフューユという別名で流通するようになりました。正確な育成年は不詳、交配親の詳細も不詳のままです。

育種者、年などの現在説の根拠

オーグスト・シェルハウゼ(August Schelhase)が1808年に提供した『Verzeichniß (商品リスト)』に掲載されているバラ・リストのなかにシュワツコフが育種したバラと思われるバラのリストがあり、そのなかのひとつにヌーベル・ガニュ(Nouvelle gagné)があります。

1815年、ボタニカル・アーティストであるサルモン・ピナス(Salomon Pinhas)はバラのイラスト集『Rosen-Sammlung zu Wilhelmshöhe(ヴィルヘルムショーンにのバラコレクション)』にプルプル・シャルマンを掲載しています。

アルディによる違名品種の同定

マダム・アルディの育種で名高いジュリアン・アレクサンドル・アルディ(Julien-ALEXANDRE Hardy)は1837年に公表した『リュクサンブール公園バラ・カタログ(Catalogue of Luxembourg RosesBook )』のなかで、
ヌーベル・ガニュ(Nouvelle gagné:新たな勝利者)
レーヌ・デ・サンフューユ(Reine des Centfeuillesケンティフォリアの女王)
ド・ラーグ(de la Hague:ハーグ由来)
の3品種は同じものの別名だろうと判定しました。この解釈が今日でも正当なものだとされています。

当サイト内の文章・画像等の無断転載及び複製等の行為は禁じます。
Unauthorized copying and replication of the contents of this site, text and images are strictly prohibited.