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バラ、特にオールドローズ、ランブラーが好きです。
品種名の由来や込められた思い、あるいは背景となった物語、
また、育種者が生きた時代などへの想像をふくらませる作業などを続けています。
バラと宿根草や、葉色が美しいリーフプランツや灌木などを配置したコテージガーデンの作庭も夢見ています。

ガリカ、いちばん古いオールドローズ?⑤~発展期/ヴィベール

デュセス・ダングレーム(Duchesse d'Angouleme)

ジャン=ピエール・ヴィベール(Jean-Pierre Vibert :1777 – 1866)

Illustration/LOUGUIGARAPH [CC BY SA-4.0 via Wikimedia Commons]

ジャン=ピエール・ヴィベールは、19世紀におけるオールドローズ育種にもっとも大きな貢献のあった育種家です。
彼のたゆまぬ努力はバラの育種のみならず園芸全般の啓蒙活動にも及びました。

ヴィベールは、旧来のクラスのみならず、新たに登場した品種群(クラス)の評価や新品種の育種にも取り組み、同時代あるいは次世代の育種家達に育種手法の経験を伝え、バラの育種の方向性をも明確に示したと言えると思います。
今日まで伝えられた多くの品種や、育種の手法についての功績は「最も偉大なバラ育種家」と評されるにふさわしいものです。

ヴィベールの生涯や育種の全体像については、別のページでまとめました。詳細はそちらに譲り、ここでは彼が残したガリカのうち主な品種だけをまとめたいと思います。

*以下の品種の解説は上記記事と重複しますが、ご了解ください

アデル・ウ(Adèle Heu)- 1816

7から9㎝径の中輪、40弁ほどの丸弁咲き。
濃淡が生じたり、縞模様が生じたりとやや変化のある深いピンクとなる花色。花芯にしばしばグリーンアイが生じます。
軽い香り。
卵形のつや消し葉、細く固い枝ぶり、小さなトゲが密生する枝ぶり。しばしば150cm高さを超えるシュラブとなります。*画像をクリックすると詳細記事にジャンプします。

育種者、育種年など

ジャン₌ピエール・ヴィベール(Jean-Pierre Vibert)によるバラ・カタログ『Observations sur la Nomenclature et le Classement des Roses(バラの命名法と分類に関する考察)』に1816年育種品種としてリストアップされています。

ヴィベールはデスメの資産を受け継いで本格的にバラ育種に取り組み始めた矢先の1816年、娘アデレード、妻アデル・シャーロット・ウ( Adélaïde Charlotte Heu)を次々に失ってしまいました。この品種は亡くなった妻アデールにちなんで命名されたものです。

デュセス・ダングレーム (Duchesse d’Angouleme)- 1826 

9cmから11cm径、うすくデリケートな花弁を無理やり詰め込んだようなカップ型、ロゼッタ咲きとなる花形です。
ライト・ピンクの花色、透けてみえるほどですので、ザ・ワックス・ローズ(the Wax Rose)という呼び方をされることもあります。
強い香り。
明るい色調のつや消し葉。120cmから180cm高さのシュラブとなります。枝は開花期など花の重みを支えきれないこともあります。トレリスやオベリスクへの誘引は必須だと思います。

美しいオールドローズは今日まで数多く伝えられていますが、この品種の薄いデリケートな花弁、たおやかな枝ぶり等、繊細な印象は格別のものがあります。最も美しいオールドローズのひとつだと思っています。
画像をクリックすると詳細記事にジャンプします。

育種者、育種年など

1809年から1849年まで2,3年おきに刊行されていた園芸誌『Le Bon Jardier(”素敵な園芸家”)』の1826年版に紹介されていたのがこの品種の紹介の初出のようです。
フランスのジョワイヨ教授は文献を調べたうえでしょう、ジャン=ピエール・ヴィベールが育種・公表したのは1821年として別の説を述べています。

ガリカにクラス分けされたり、ケンティフォリアとされることもある、アガタ・インカルナータ(Agathe Incarnata;”肌色のアガータ”)は、このデュセス・ダングレームと同じ品種だ(グラハム・トーマス)とも、違うものだという説(ディカーソン、ジョワイオ)があって結論が出ていないようです。
数多く観察したわけではありませんが、国内で見ることのできる実株からは2品種は別のもののように思います。

デュセス・ダングレーム(Marie Thérèse Charlotte、Duchesse d’Angouleme:1778-1851
Painting/Alexandre-François Caminade [Public Domain via Wikimedia Commons]

デュセス・ダングレーム(Marie Thérèse Charlotte、Duchesse d’Angouleme:1778-1851)は、フランス革命の際、刑死したルイ16世とマリー・アントワネットに授かった、第一子マリー・テレーズのことです。

フランス革命の嵐に翻弄された人生でした。父ルイ16世、母マリーアントワネットはギロチンに架刑されたこと、弟ルイ17世も牢内で病死したことを独房から解放されるまで知りませんでした。

そのことから、共和主義者への憎悪は徹底しており、また、皇帝となったナポレオンが王宮に”N”の印章を数多く残したことにも激怒し、ボナパルティストも忌嫌っていました。

王制復活後に帰国した際には、いわゆる白色テロを煽動し、多くの活動家を死に追いやったたことでも知られています。
1830年7月革命によりシャルル10世が退位を余儀なくされると再び亡命生活を送り、二度と故国フランスへ帰国することはなく1851年に死去しました。享年72歳、マリーアントワネットの実子で唯一人生をまっとうしました。

イプシランテ( Ipsilanté )- 1821

7cmから9cm径、花弁が密集するロゼッタ咲きとなる花形。花芯にグリーンアイができることもあります。
ストロング・ピンク、外輪部は淡く色抜けする花色ですが、色の出具合には、淡いピンクからかなり強めのピンクまでと変化があります。
強い香り。
卵形、葉脈がはっきり見える、明るい色調のザラリとした表皮のつや消し葉、細いけれど固めでしっかりした枝ぶり、90cmから120cm高さのシュラブとなります。
画像をクリックすると詳細記事にジャンプします。

育種者、育種年など

ジャン₌ピエール・ヴィベール(Jean-Pierre Vibert)によるバラ・カタログ『Observations sur la Nomenclature et le Classement des Roses(バラの命名法と分類に関する考察)』に”Année de la première floraison: 1821(この年に初開花)”とコメント付きで公表されました。

完成の域に達したピンクのガリカだと思います。ガリカとしては例外的なほど遅咲きです。”遅咲き”イプシランテとして記憶するとよいかもしれません

イプシランテ(Alexander Ypsilantis:1792-1828)
イプシランテ(Alexander Ypsilantis:1792-1828)[Public Domain via Wikimedia Commons]

イプシランテ(Alexander Ypsilantis:1792-1828)はコンスタンチノープル出身のギリシャ人です。
両親とともに帝政ロシアに移住後軍人となりましたが、1820年、ギリシャ独立をもくろむ秘密結社フィリキ・エテリアに加わりました。
1821年、バルカン半島各地でオスマントルコへの叛乱をあおる檄を飛ばし、自らも反乱軍を指揮しました。3月25日、各地で反乱が起き、これを記念して同日がギリシャ独立記念日となりました。

独立戦争は一時期オスマントルコ側が優勢となりましたが、英国、フランス、ロシアの3国が介入したことにより独立軍優位となり、1830年に反乱軍の事実上の勝利により終結しましました。
1832年、英国、フランス、ロシアおよびオスマントルコ間で締結されたコンスタンチノープル条約によりギリシャ独立は正式に承認されました。

奔放な愛の遍歴を重ねた英国の詩人バイロン(George Gordon Byron:1788-1824)は1823年に義勇軍を率いてギリシャ独立軍に参加しましたが、翌年熱病にかかり死去しました。享年36歳でした。

オール(Ohl)- 1830

3cmから7cm径、小輪ながら40弁を超えるカップ型、ロゼッタ咲きとなります。
花色は、外弁は淡く色抜けすることが多いですが、藤色(モーヴ)、パープル、クリムゾン、ときにはディープ・ピンクなど変化が大きいことで知られています。
香りは中程度。
大きめのつや消し葉、剛毛のようなトゲが密生する枝ぶり、120㎝高さほどの小さめのシュラブとなります。
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育種者、育種年など

1830年にヴィベールにより育種・公開されました。交配親は不明で、一般的にはガリカにクラス分けされていますが、鮮やかな赤が出ることがあることから、とくに初期の記述ではチャイナローズの交配種だとされていることもありました。

ネストール(Nestor)- 1834 or 1841

7cmから9cm径、35弁ほどのロゼッタ咲きまたは丸弁咲きとなる花形。しばしば花芯に緑芽が生じます。
花色はミディアム・レッド(ARS)として登録されていますが、現在市場に流通している品種はストロング・ピンクとなることが多いものです。強い香り。
卵形、縁のノコ目が強く出るつや消し葉、固いけれど細めの枝ぶり、90cmから120cm高さの小さめのシュラブとなります。
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育種者、育種年など

1834年または1841年、フランスのジャン=ピエール・ヴィベール(Jean-Pierre Vibert)が育種・公表しました。交配親はわかっていません。
じつは疑問点があげられています。この品種についての古い記述では花色はカーマイン・レッドあるいはクリムゾンとされていることです。
仮に偽品種であったにせよ、現在流通しているピンクのネストールの美しさは驚嘆すべき完成度に達していると思います。

海神ポセイドン(中央)に息子たちとともに生贄をささげるネストール
“ピロス(ギリシャ西海岸の都市)において、海神ポセイドン(中央)に息子たちとともに生贄をささげるネストール(右の白髪白髭の人物)” [CC BY SA-2.0 via Wikimedia Commons]

ネストール(Néstōr)はギリシャ神話に登場する老将です。神々に愛され長い寿命を与えられました。トロイ戦争ではギリシャ軍の戦略家として登場し、弁舌は賢将オデッセイアと競いあい、総大将のアガメムノンのよき補佐役でもありました。

ただ、長い人生経験を経たことを饒舌に自慢する悪癖があり、彼に接する人物からは疎んじられていたとも伝えられています。

アントニーヌ・ドルモア(Antonine d’Ormois)- 1836

7cmから9cm径、40弁を超えるカップ型・ロゼッタ咲き。
花色は淡いピンク、中心部はわずかに濃色気味になります。
軽い香り。
卵形のつや消し葉。トゲの少ない細い枝ぶり、180cmから250cm高さに達するシュラブとなります。樹形が乱れがちですのでトレリスなどに誘引してつるバラとして仕立てるのがよいと思います。
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育種者、育種年など

ジャン₌ピエール・ヴィベール(Jean-Pierre Vibert)によるバラ・カタログ『Observations sur la Nomenclature et le Classement des Roses(バラの命名法と分類に関する考察)』の1824年版に’Aantonia’という品種名でリストアップされているという記事があるのですが、文献上では確認できませんでした。

ジョワイヨ教授は『ラ・ロズ・ド・フランス(La Rose de France)』におけるこの品種の解説のなかで、品種名は”Antonia”ではなく、”Antonine d’Ormois”が正しいと訂正したあと、ヴィベール自身の育種ではなく、1835年に他の農場から買い入れ、翌1836年から販売開始したものと判断しています。また、ガリカにクラス分けすることに疑問を呈しています。
ザンガーハウゼン・バラ園で長年にわたり観察を重ねたオーグスト・イェーガーも、『ローゼンレキシコン(Rosenlexikon;”バラ百科”)』のなかで、ガリカと記した後、クエスチョンマークを二つもつけています。
ここでは、育種年1835年説としました。

茎に生じる剛毛のような小さなトゲや葉色などはガリカの特徴だと思いますが、樹形や開花している全体的な印象としてはガリカではありません。”変な”ガリカとするのか、あるいは花色から”ガリカ風”のアルバとするのか判断が分かれるところだと思われます。
アントニーヌ・ドルモアは人物名だとは思いますが、どんな人物であったかは不明です。

ダゲッソー(D’Aguesseau)- 1836

7cmから9cm径、花芯に花弁が密集する丸弁咲きとなる花形。
一季咲きのオールド・ローズのなかでは類稀れなミディアム・レッドの花色となります。
軽く香ります。
楕円形の、縁のノコ目が顕著な明るい色調のつや消し葉、細いけれど固めの枝ぶり、120cmから180cm高さの、ガリカとしては例外的な、比較的大きめのシュラブとなります。
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育種者、育種年など

1836年、J.P. ヴィベールにより公表されたので、彼の育種とされることが多いのですが、ルイ・パルメンティエの圃場に保管されていた品種リストに記載されていることから、パルメンティエ圃場からヴィベールの手に渡ったのではないかと推察されます。(Francois Joyaux, “La Rose de France”)。

1847年に発行された『故ルイ・パルマンティエ氏が収集した貴重なバラコレクションのカタログ(Catalogue de la riche Collection de Rosiers, formée par feu M. Louis Parmentier)』にリストアップされているので、実際の育種者はパルメンティエであることが明らかです

フランス王ルイ14世、15世治下の時代の法務官であったアンリ・フランソワ・ダゲッソー(Henri François d’Aguesseau:1668 – 1751)にちなんで命名されというのが、通説です。

Portrait of Henri François d’Aguesseau Painging/Hyacinthe Rigaud
Portrait of Henri François d’Aguesseau Painging/Hyacinthe Rigaud [Public Domain via Wikimedia Commons]

アンリ・フランソワ・ダゲッソーは、フランス中央部の都市リモージュ(Limoges)の代々治安判事を勤める家系に生まれました。
21歳の若さでパリ高等法院国王代理のひとり(定員3名)に任命されるなど学識の高さで知られていました。

ルイ15世治下のフランスにおいて、1717年 – 1722年および1727年 – 1750年の二度に渡って大法官(宰相)を勤めました。1750年に引退し、翌年の1751年2月9日に82歳で死去しました。

実は、以前からこの品種が19世紀になって育種されたのに、100年前の18世紀に活躍した法務官にちなんで命名されたという説には疑問を抱いていました。

ダゲッソーの名はやはりフランスの法務官となった孫のHenri-Cardin-Jean-Baptiste, Marquis d’Aguesseau(1752 – 1826)や、やはり孫にあたるHenriette Anne Louise d’Aguesseau(1737 – 1794)に受け継がれました。

スターリング・マッコボイ(Stirling Macoboy)は著書『究極のバラ解説書(The Ultimate Rose Book)』なかで、マルキーズに捧げられたのではないかという見解を述べています。
政府の高官となったマルキーズより、フランス革命の渦中、ギロチンに架刑されたアン=ルイーズのほうに心が動きますが、真偽のほどはわかりません。

アレン・ブランシャール(Alain Blanchard)- 1839

7cmから9cm径、カップ型、セミ・ダブルとなる花形。
開花時、クリムゾンであった花色にはパープルが加わり、深い色合いに変化します。花弁の基部が白く色抜けすることが多く、花芯のイエローのオシベとのコントラストが鮮やかです。
香りはわずか。
すこし尖り気味の、くすみのあるつや消し葉。120cmから180cm高さのシュラブとなります。開花時には花の重みで優雅にアーチします。
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育種者、育種年など

1839年、ジャン=ピエール・ヴィベールにより育種・公表されたと特定されています。
葉、枝ぶり、樹形などにケンティフォリアとの類似が見られることから、ガリカとケンティフォリアとの交配により育種されたと見られています。

いかにも古い由来と思わせる印象から、グラハム・S・トーマスはもっとずっと古い由来を持つものではないかと考えていたようです。

イングランドとフランスの間で続いた百年戦争(1337-1453)の間、一抗争であるルーアン城攻防において、城を守り抜いたのがアレン・ブランシャール(Alain Branchard)でした。この品種の命名はその英雄にちなんでいます。

14世紀の初め頃、フランスではブルゴーニュ派とアルマニャック派がフランス王位を巡って血で血を洗う争いを繰り広げている時期でした。1415年、イングランドのヘンリー5世は、この混迷に乗じ、ノルマンディなどの領有とフランス王位の継承を主張し軍をノルマンディーに進駐させました。
1417年、城砦都市ルーアンを包囲したイングランド軍は城壁に陣取った石弓隊による頑強な抵抗に悩まされます。この石弓隊を率い、イングランド軍の捕虜を処刑して首を城壁に吊るして攻撃をさまたげるなどして頑強に抵抗し、ルーアン守備の勇将と讃えられたのがアレン・ブランシャール(Alain Branchard)でした。
1419年、ルーアンがついに降伏したとき、身代金を支払うことで断罪をまぬがれた有力者があったなかで、ブランシャールは、
「わたしは支払いできる財産もないが、もしあったとしても、イングランド人の不名誉をそそぐようなことには使わない」と述べ、斬首されたと伝えられています。

ペルル・デ・パナッシェ(Perle des Panachées)- 1845

7cmから9cm径、40弁ほどのロゼッタ咲きとなる美しい花形。
花色は白にクリムゾンの筋が入るストライプがはいります。どちらかというと白の割合が勝っています。
強い香り。
深い色合いのつや消し葉。尖った葉先は他のクラスの性質が反映されているのではないかと思わせます。細いけれど固い枝ぶり、90cmから120cm高さの低性のブッシュとなります。
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育種者、育種年など

1845年発行の『メーヌおよびロワールにおける園芸植物一覧(Travaux du Comice Horticole du Maine et Loire)』にジャン=ピエール・ヴィベールが育種したと記載されています。ペルル・デ・パナシェとは”まだら模様の真珠”という意味です。

アンブロワーズ・パレ(Ambroise Paré)- 1846

7cmから9cm径、40弁を超えるカップ型・ロゼッタ咲きとなる花形。花色はパープルまたは赤味を帯びたカーマイン/バーガンディ、花弁縁は淡く色抜けします。強い香り。
すこし尖り気味の卵形のつや消し葉。剛毛のような小さなトゲが密生する枝ぶり、120cmから180cm高さの立性のシュラブとなります。
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育種者、育種年など

1847年刊行の園芸年誌『ル・ボン・ジャルディニエール(Le Bon Jardinier:”素敵な庭師”)』のガリカの項に
「アンブロワーズ・パレ … 中型、花弁が豊かで、ロゼット状、濃い紫色、斑入り」と記載されているのが文献上での初見のようです。育種年は前年の1846年とされています。

アンブロワーズ・パレ(Ambroise Bare)
アンブロワーズ・パレ(Ambroise Bare)

アンブロワーズ・パレ(1510 – 1590)は、いわゆる床屋外科であり、戦時に従軍し負傷兵の治療を行っていました。
当時銃創の治療には熱した油を注ぐという荒っぽい治療が主流でしたが、軟膏を用いる治療法を工夫し、名声を得るにいたりました。

16世紀の医療は内科が重んじられ、外科医は刃物をあつかう床屋と同列にみなされていたとのことです。パレはさらに血管を縛って止血する工夫も編み出し、後の時代に先駆的な外科医として尊敬をあつめることとなりました。

温厚な人柄で「優しい外科医」と表されたとのことです。
「Je le pansai, Dieu le guérit.(私は彼の傷に包帯を巻き、神が彼を癒した。)」いう言葉を残しています。

デュセス・ド・バクルー(Duchesse de Buccleugh)- 1846

飾りつけたような大きな萼弁に包まれたツボミは、開花すると11cmから13cm径の大輪、浅いカップ型、ロゼッタ咲きとなります。
花色はビビィット・ピンクまたは少し濁って深い色合いのピンクとなります。ときにモダンローズのような真紅が出ることでも知られています。
ダマスク系の強い香り。ガリカのなかでもとりわけの遅咲き品種として知られています。
卵形のつや消し葉。剛毛のような繊毛が生じますが、トゲはほとんど見られません。古い由来のガリカによく見られる特徴です。150cmから250cm高さの大型のシュラブとなります。
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育種者、育種年など

『パリ王立園芸協会紀要(Annales de la Société Royale d’Horticulture de Paris)』1837年版にヴィベール作出、デュセス・ド・ベネレンチ(Duchesse de Benelench)という品種名で記録されたのが、この品種の文献上の初見のようです。

ただ、真紅となることがある花色、大輪花となるなどHTのようなモダンローズに近い特徴があることから、ヴィベールの後継者であるロベール(M. Robert)により、1846年あるいは1860年ころに育種されたのではないかという説もあります。ここでは、1846年ヴィベール晩年期の作出としました。

デュセス・ド・バクルー~品種名の由来

Duchesse de Buccleugh(バクルー公爵夫人)はスコットランドのバクルー公爵夫人ということですが、17世紀の公爵領となって以来、幾人ものバクルー公爵夫人がおられるので、何代目の公爵夫人にささげられたのか不明のままです。
また、なぜフランス人であるヴィベールがスコットランドの公爵夫人にささげたのかもわかっていません。

アン・スコット、初代バクルー公爵夫人(1651–1732)
アン・スコット、初代バクルー公爵夫人(1651–1732)

エリザベス・スコット、第3代バッククルー公爵夫人(1743年 - 1827年)
エリザベス・スコット、第3代バッククルー公爵夫人(1743年 – 1827年)
シャーロット・モンタギュー・ダグラス・スコット、第5代バッククルー公爵夫人(1811-1895)
シャーロット・モンタギュー・ダグラス・スコット、第5代バッククルー公爵夫人(1811-1895)

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