ガリカの育種の流れについて、これまで『ガリカ、いちばん古いオールドローズ?』と題して①から⑥までたどってきました。
育種者が知られていない黎明期からはじまり、シュワルツコフ、デスメ、ヴィベール、パルメンティエと著名な育種家たちが公表した品種を公表年にそって解説してきました。
ここでは、愛好家に深く愛され続けてきたすぐれた品種でありながら、育種者が不明あるいはアマチュアなど、あるいは著名な育種家の手によったものではない品種をご紹介したいと思います。
前篇は黎明期からヴィベールが活躍する時代の1836年まで、次回の⑧の後篇で、1837年から現代までの品種をご紹介したいと思います。
*以下の品種の解説は個々の品種解説と重複しますが、ご了解ください。
サーパス・トゥー(Surpasse Tout)- 1790年以前
オランダのジャン・クレプス(Jean Kreps)が発行していた『極美植物カタログ(Catalogue des plus belles Plantes )』の1790年版に’De Junon’(ユーノー;ローマ神話に登場する女神)という品種名が記録されています。
この’De Junon’と’Surpasse Tout’は同種別名とみなされていることから、1790年には知られていた品種ではないかとされています。クレプスのカタログから、オランダまたはベルギー由来であろうとされていますが、育種者は不明のままです。
ただ、深いピンク/ミディアム・レッドとなる花色、カップ型の花形などには新しさが感じられ、18世紀に世に出たとされることには違和感があります。19世紀になってから生み出されたという解説もあり、どちらかと言うと、その解説のほうが説得力があるように感じています。
*画像をクリックすると詳細記事にジャンプします。
品種名の由来など
“Surpasse Tout”とは、”すべてに勝るもの”という意です。”セリゼット・ラ・ジョリー(Cérisette la Jolie;チェリー色の喜び)”という別称でも知られています。
デュク・ド・ギッシュ(Duc de Guiche)- 1810年以前
植物学者であるニコラ=ジョゼフ・プレヴォ( Nicolas-Joseph Prevost fils:1787 – 1855)が残した文献などから、1810年以前に遡ることができるとされていますが、育成者などは不明です。
1810年以前に遡れるかもしれないというジョワイヨ教授の説(『La Rose de France』)と、いやいやこんなに完成された大輪種がそんなに古い時代から存在していたわけはない、というグラハム・トーマスの説(『Graham Stuart Thomas Rose Book』)が両極端です。
特にグラハム・トーマスはこの品種の美しさを絶賛しています。乱れるかに見えて、風情を保ちながら全体としてはまとまる樹形。深い葉色、繁茂する葉の間から飾り付けたかのように花開くクリムゾンの大輪花。彼が求めて止まなかったバラの魅力は、この品種に集約されているのかもしれません。
*画像をクリックすると詳細記事にジャンプします。
品種名の由来など

第9代ガルモン公爵/ギッシェ公爵(Antoine 9th Duc de Gramont/Duc de Guiche:1789-1855)にちなんで命名されたと言われています。(『La Rose de France』)
アントワーヌ・ガルモンは今日のスペインとの国境近く、バスク地方に居城があったガルモン家に生まれました。
フランス革命勃発時とういう激動の時代に生をうけ、ロシアなど家族とともに長く亡命生活を送りました。
ロシア滞在時には幼少でありながら、軍務に着き、その後、イギリスなどにも滞在したものの、革命の時代からナポレオンが隆盛を極めるフランス政府とは、同国の王制復古の時代まで敵対を続けた人物でした。
アッセンブラージュ・デ・ボーテ(Assemblage des Beautés)- 1823年
1818年頃、フランスのジェントルオム(Gentilhomme)が育種したという記述も見受けますが、Gentilhomme(”紳士”)という少し疑問のあるナーサリー名でもあり、一般的に言われている、1823年に育種され、育種者不明、翌年には広く出回るようになっという説をとりたいと思います。
香り高い大輪種、開花時クリムゾンであった花色は花弁の一部が色抜けして白くなったり、熟成するとパープリッシュな色合いが出てより濃色になったり、逆に全体に色抜けしてモーヴ(藤色)に近くなったりと大きく変化することがあります。
*画像をクリックすると詳細記事にジャンプします。
品種名の由来など
‘アッセンブラージュ・デ・ボーテ(Assemblage des Beautés)’とは、”美の集合体”といった意味合いでしょうか。
‘ルージュ・エブルーサント(Rouge Éblouissante;”鮮やかな赤”)’、’ポンソー(Ponceau;”ヒナゲシのような赤色”)という別名で流通することもあります。
デュセス・ド・モントベロ(Duchesse de Montbello)- 1824年
フランスの園芸家ルイ・クロード・ノワゼット(Louis Claude Noisette)が1825年から1827年にかけて刊行した大著『完全園芸マニュアル(Manuel complet du Jardinier)』第4巻、第2部のなかで、
「ベンガルローズ…モンテベロ公爵夫人…この品種は一季咲きです。ほとんどがインディカ種、センペルフローレンス種、シネンシス種の交配種です」という短評を添えて紹介したのが文献上の初見です。このことから、デュセス・ド・モントベロの育種年は1824年とされています。
数年後の文献で、育種者はジャン・ラッフェイ(Jean Laffay)であると明らかにされるようになりました。
*画像をクリックすると詳細記事にジャンプします。
品種名の由来など
この品種は、ナポレンのもとで戦功があり、モントベロ公に叙せられたランヌ元帥(Jean Lannes, Duc de Montebello:1782-1856)の夫人にささげられました。美貌をうたわれた夫人にふさわしい美しい花です。

モントベロ公爵の人生はフランス革命からナポレオン戦争という激動の時代を駆け抜けた男にふさわしい波乱に富んだものでした。
革命前夜、染物師の徒弟だった若きジャン・ランヌ(Jean Lannes:1769-1809)は1784年7月14日、市民階級によるバスチーユ牢獄襲撃によりフランス革命が勃発するとすぐに国民衛兵隊という市民軍に加わりました。勇敢さゆえに昇進をかさね、少佐に昇進しましたが、上官とのいさかいから退役してしまいました。しかし、ナポレオンが指揮するイタリア遠征に一兵卒として参戦すると、その勇猛さからすぐに軍曹にまで昇進しました。
元少佐の軍曹がいるという話を耳にしたナポレオンはジャン・レンヌを呼び出して話を聴くと、ただちに取り立て、元の少佐に戻しました。
1796年、北イタリア、アルコレ橋をめぐって行われたオーストリア軍との争奪戦においては負傷を重ねながらも常に先頭に立って戦い、ナポレオンを感激させたと言われています。
1800年、モントベロの戦いでの戦功により中将に昇進、モントベロ公爵の称号を与えられました。

この女性がこの品種をささげられたモントベロ公爵夫人(Louise Antoinette Lannes, Duchess of Montebello :1782 – 1856)です。
夫婦仲は良好だったようです。子宝にめぐまれ、ふたりには4人の息子とひとりの娘が生まれました。長男にはルイーズ=ナポレオン、末の娘にはジョゼフィーヌ=ルイーズと命名したのはご愛敬というところでしょうか。
1808年、ナポレオンが指揮したドナウ河畔でのアスペルン・エスリンクの戦いではフランス軍はカール大帝が率いるオーストリア軍に敗れてしまいました。
参戦していたランヌは、退却の際しんがりをつとめ追撃するオーストリア軍と激しい戦闘を続けました。しかし、砲弾により右足を負傷、切断手術をうけ回復への望みが得られたものの、九日ほど後、この負傷がもとで死去しました。ナポレオンは親しい友でもあった部下のランヌにすがって泣き崩れたと言われています。
レーヌ・ド・ペルス(Reine de Perse)- 1825年以前
1826年発行のノワゼットによる植物カタログ『樹木、低木、植物の総合カタログ(Catalogue général des Arbres, Arbustes et Plantes)』にリストアップされているのが文献上の初見です。育種者は不明、育種年も1825年以前、どれだけ遡れるのかわかりません。
ミディアム・ピンクからどんどん色抜けして最後にはほとんど白花となる品種がアルバではなく、ガリカであるとされていますが、その点に疑問を持った研究者はあまり見当たりません。
わずかに、ドイツ、ザンガーハウゼンのバラを長年にわたって観察・記録したオーグスト. イェーガー(August Jäger)は観察ノート『バラ図鑑(Rosenlexikon)』のなかで、「ガリカ??」と率直な疑問を残しています。
*画像をクリックすると詳細記事にジャンプします。
品種名の由来など

レーヌ・ド・ペルスとは”ペルシャ王妃”という意ですが、旧約聖書の歴史物語中の『エステル記』の主人公エステル(Esther)のことだと思われます。
ユダヤ人モルデカイの養女エステルは美貌で知られ、ペルシア王クセクルス1世(紀元前5世紀に実在するペルシャ王)の王妃に選ばれました。
エステルは美貌ばかりではなく控え目で高い徳を備え、深く王に愛されるようになりました。
しかし養父モルデカイが高官ハマンの怒りを買ったことからすべてのユダヤ人を虐殺するという王命が出てしまいます。
エステルは王に謁見し高官ハマンに非があることを知らしめ、王命は取り消されます。
ユダヤ教ではユダヤ人の滅亡を防いだこの故事から毎年初春に祝祭をもよおしています。
カマユー(Camaieux)- 1826年?
ジャン₌ピエール・ヴィベール(Jean-Pierre Vibert)によるバラ・カタログ『Observations sur la Nomenclature et le Classement des Roses(バラの命名法と分類に関する考察)』の1831年版に
「ストライプの多色咲き、マーブル模様となるプロヴァン(ガリカ)ー ローズ・カマユー、中輪花、ストライプのライラックピンク」という記述つきで公表されました。
これがこの品種の文献上における初見となりました。そのことから、長い間、ヴィベールが前年の1830年に育種したのだろうと理解されてきました。
しかし、実際は彼自身の育種ではなく、ロワーヌ地方アンジュー(Anjou)のアマチュア育種家であったジェンドロン氏(Mon. Gendron)が(現在では不明の単色咲き品種の中から)発見して公表したという説が定説になりつつあるようです。
小さな樹形のストライプ種として、非常に人気のある品種です。
カマユー(Camaieux)とは、縞模様となった宝石のことです。
*画像をクリックすると詳細記事にジャンプします。
ベル・ド・クレシ(Belle de Crécy)- 1825年以前
『実践農業ジャーナル(Journal de la Société d’Agronomie Pratique)』1829年版にピエール・ジャン・ルイ・ロエザー(Pierre Jean Loui Roëser)により育種されたという記事があります。ロエザーはパリ近郊のクレシ=アン=ブリ(Crécy-en-Brie)で農場を経営していたとのことです。育種したバラの品種名のいくつかは今日まで伝えられ、その代表的な品種がこのベル・ド・クレシです。農場経営者ではありましたが、バラ育種は専業ではなかったようです。
美しい花を楽しむためには、いくぶんか注意を払う必要がありますが、良好な成育下で開花した場合は、その深い色合い、鮮烈な香りで比べるものがないほどの美しさです。ガリカの典型的な性質を示すばかりではなく、その頂点に立つ品種のひとつだと言えると思います。
*画像をクリックすると詳細記事にジャンプします。
品種名の由来など
ベル・ド・クレシとは「美しきクレシ」という意味です。フランス王ルイ15世の寵愛を一身に受け、隆盛を誇ったポンパドール夫人が所有していた館のひとつ、クレシ館にちなんで名づけられたというのが長く信じられてきた説がでしたが、現在では育種者ロエザーの農場所在地にちなんで命名されたことが判明しました。
ロズ・ド・ラ・メートル・エコール(Rose de la Maître-École)- 1831年
『アンジェ農業・科学・芸術協会紀要(Mémoires de la Société d’Agriculture, Sciences et Arts d’Angers)』の1835年版にアンジェのアマチュア育種家コックロー氏(M. Coquereau)が育種し、1831年に初開花したとの記述があります。
交配親の詳細は不明のままです。
コックロー氏はアマチュア育種家ですが、ライト・イエローのノワゼットクロマテーラ(Chromatella;1841)の育種者としても知れれています。
*画像をクリックすると詳細記事にジャンプします。
品種名の由来など
メートル・デ・コールとは”学校教師”の意ですが、フランス西部の都市、アンジェの街路名でもあります。この品種の育成者、コクローが居住地にちなんで命名したのではないかと言われています。
オルフェリーヌ・ド・ジュイュ(Orpheline de Juillet)- 1835年以前
1835年には市場で販売されていたことが分かっていますが、正確な育種年、育種者は不明のままです。
ガリカの性質が濃厚ですので、ガリカにクラス分けされるのが通常ですが、葉が大きめで明るい色合い、株丈も比較的大きくなるためか、ダマスクの影響があるのでは(『La Rose de France』など)という解説もあります。
花色はカーマイン/バーガンディ。花色は熟成してゆくにつれ、パープルの色合を濃くしてゆきます。深い色が数多くあるガリカですが、その中でもとりわけ深い色、おそらくもっとも深い色合となるの品種です。
*画像をクリックすると詳細記事にジャンプします。
品種名の由来など
’Orpheline de Juillet ’とは、”7月の孤児”という意味です。
1830年、フランスはシャルル10世による王制のもとにありましたが、旧貴族を重用する時代錯誤的な政策に共和主義者や市民が反発し、7月27日に叛乱が勃発、3日間続きました。
この叛乱は後に「栄光の三日間」と呼ばれることとなりますが、この叛乱の際には市民の犠牲もありました。政権が倒れた後、孤児となった子供たちのため支援策が公布されました。それがこの品名の由来です。


