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バラ、特にオールドローズが好きで名前の由来や育種の経緯などを調べています。
宿根草や葉色が美しい草花や灌木などをアレンジしたバラ咲く庭を愛でるのも長年の夢です。

ジャン=ピエール・ヴィベール~もっとも偉大な育種家

ジャン=ピエール・ヴィベール(Jean-Pierre Vibert :1777 – 1866)

ジャン=ピエール・ヴィベール
Illustration/LOUGUIGARAPH [CC BY SA-4.0 via Wikimedia Commons]

ジャン=ピエール・ヴィベール

庭植えバラの育種家として、その発展に偉大な功績を残し、築き上げられ蓄積された手法は、現代にいたるまで大きな影響を与えています。
最も偉大なバラ育種家と評されるヴィベールの功績をご紹介します。

誕生~青年時代(1777 – 1812)

ヴィベールは1777年、パリの商家に生まれました。時代はフランス革命前夜、ルイ16世(在位1774-1793)治世の時代、隆盛をほこった絶対王政も爛熟期を迎え凋落の一途にありました。
1789年、パリ市民によるバスチーユ牢獄襲撃に端を発したフランス革命は、やがて国王ルイ16世、王妃マリー・アントワネットをギロチンに架すなど混乱をきわめてゆきました。

この混乱期に共和軍を指揮して戦功をあげ、頭角を現したのがナポレオンでした。
 1796年、ナポレオンはイタリア戦線の軍司令官として遠征します。18歳の若きヴィベールはこの軍に兵卒として参戦しました。しかし、ナポリ包囲戦で負傷し傷病兵としてパリへ帰還しました。

パリに戻ったヴィベールは退役して金物商となり、1804年には独立。翌年には伴侶アデール(Adèle Heun)を得て商店を切り盛りしていました。このころ、ヴィベールは当時著名な園芸家でバラ研究家であったデュポン(後にマルメゾン宮殿の植栽を指導する)の知遇を得てバラに魅了され、数多くはないものの、バラのコレクションを持っていたと言われています。

農場開設とバラ育種の開始(1813 – 1816)

1813年、ヴィベールはパリ、モンパルナスの金物店を閉店し、パリ南東郊外のシェンヌヴィエール(Chennevières)に農場を開設しました。
ヴィベールはパリ近郊のサン=ドニでバラ農場を経営していたデスメからバラのコレクションを譲り受けました。その中には育種種、育種に関するノートも含まれていたと言われています。
将来に夢をたくしたスタートだったと思われますが、その直後、末娘アデレード(Adelaide)が病死(1815年)、さらにその数ヶ月後には妻アデールをも病気で失ってしまうという不幸に見舞われてしまします。(1816年)

バラ育種家としての名声(1816-1851)

しかし、不幸にも負けず、ヴィベールは早くも1816年には新品種を公表し、その後1851年まで、害虫被害(イギリスから飛来したとされるコガネムシによるもの。幼虫が地中にひそみ、根を食害する)を避けるため、シェンヌヴィエールからサン=ドニ(Saint-Denis)、アンジェ(Angers)へと何回か国内を転地しながらも、たゆむことなく多くの品種を世に送り出しました。

育種は、原種の交雑種から、ガリカ、ケンティフォリア、アルバ、ダマスク、チャイナ、ティー、ノワゼット、ダマスク・パーペチュアル(ポートランド)、ハイブリッド・パーペチュアルなど、当時流通していたほとんどすべてのクラスに及んでいます。そのいずれのクラスにも輝かしい足跡を残し、多くの品種が今日のバラ愛好家への貴重な遺産となりました。

引退(1851)、卒去(1866)

1851年、74歳のとき、ヴィベールはヘッド・ガーデナーであったフランソワ=アンドレ・ロベール(Français-André Robert )へ農場を譲渡して引退しました。1816年から1851年の35年の間に600種を超える品種を公表し、“最も偉大な育種家”と呼ばれています。

ヴィベールは死の直前、孫に向かい、
「わしが愛したのは、ナポレオンとバラだけだった…いついつまでも忌々しくわしを苦しめたのは、イギリス人だ。やつらは、わしのアイドルであったナポレオンを打ち倒し、バラを死滅させる白芋虫を送りつけたからだ」と語ったと伝えられています。

引退後はパリに居住し、園芸コラムなどを記述していましたが、1866年、89歳の天寿をまっとうし卒去しました。

(参照: “Jean-Pierre Vibert” , Brent C. Dickerson,1998など)

育種された代表的なバラ

ヴィベールが育種した品種は600種を超えると言われています。現代においても世界各地のバラ園で開花の様子を鑑賞できたり、バラ苗販売業者が市場へ提供しているものが少なからず残っています。

この記事では代表的な品種について、次の三つにグループに分類してみました。

特徴育種年代紹介品種
ガリカ、アルバの時代1816年
~1823年
デュセス・ダングレーム、イプシランテなど、11種
クラス拡大の時代1828年
~1842年
ゾエ、アントワーヌ・ドルモア、ブランシェフルール、ラ・ヴィラ・ド・ブルッセル、ヨランド・ダラゴンなど、19種
返り咲き品種の導入の時代1845年
~1849年
アンブロワーズ・パレ、ジャン・ボディン、ロトルー、ザイールなど、15種

ガリカ、アルバの時代(1816~1823)

デスメの育種ノウハウを譲り受けたヴィベールはデスメ育種品種とともに自身が育種したバラも市場へ提供するようになりました。
1816年から1823年の時代、それらは主にガリカ、そして少数のアルバやケンティフォリアなど春一季咲きの品種でした。
そして赤花が主体のガリカにフランコフォートのピンクの血流を入れることにより澄んだピンクのガリカが生み出されることとなりました。
ヴィベールによる育種の初期を飾る成果は、もっとも美しいピンクのガリカのひとつと評価される’イプシランテ’だと思います。

クラス拡大の時代(1828~1842)

1828年から1842年はヴィベールの育種は全盛期を迎えます。
育種した品種はガリカ、アルバ、ダマスクなど旧来からのものに加え、返り咲きするダマスク・パーペチュアル、ノワゼット、チャイナ、そしてモスと、当時流通していたほとんどすべてのクラスの品種を幅ひろく提供するようになりました。
アントワーヌ・ドルモア、ブランシェフルール、ラ・ヴィル・ド・ブルッセル、ヨランド・ダラゴンなど現代まで長く愛されつづけているオールドローズがあふれています。

返り咲き品種の導入の時代(1845~1849)

1839年、ヴィベールは廃業を考えて圃場をロワーヌ渓谷のアンジェ近郊へ移しました。
当時、バラの育種には後にハイブリッド・パーペチュアルの生みの親と称えられるジャン・ラッフェイ(Jean Laffay:1794 – 1878)やバラばかりではなく園芸業界の重鎮となるコシェ一家などの育種家たちの活躍が始まっていました。ヴィベールの農場にも後に後継者となるロベールが育種の主な担い手となっていました。
この時代、ヴィベールはダマスク・パーペチュアルなど返り咲き性のある品種や、やはり返り咲き性を得て当時の新品種の潮流の中心にあったモスローズの育種に取り組みました。

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